埼玉織物の歴史 草創期

埼玉県の織物生産地域

かつて武蔵国と呼ばれていた埼玉県では、江戸時代初期には秩父・児玉・大里など山間部を中心に絹織物の生産が行われていた。その後、中期には定期的に絹市が開かれるようになり、江戸に店を構えた上方商人が大量買付けを行い、地元の絹商人と手を結んで生産に関与するようになっていった。
県南西部の台地、入間・高麗でも江戸中期には絹織物の生産が盛んになったが、綿織物の生産も並行して行われていた。
一方、埼玉織物工業協同組合(以下、当組合)の地盤である県南地域でも江戸時代の中頃から綿織物が生産されていたが、広く産地として知られるようになったのは、江戸時代末期のことだった。
このように、県内で絹織物と綿織物の生産地が異なるのは、気候風土によることが大きいと考えられる。山間部は絹織物の生産に欠かせない桑や蚕の生育に適しており、県南部は湿地帯が多く綿花の生産と染料となる藍の栽培に適していたのである。因みに、明治9年(1876年)発刊の『武蔵国郡村誌』による「明治初期農業物産表」からは、現川口市域の物産として桑・蚕・生糸等養蚕に関するものは、ほとんど見当たらないが、商品作物の藍の生産が盛んであったことが見て取れる。

麻から木綿へ

国内で綿花の栽培が始まったのは戦国時代(室町時代末期)、伊勢・三河が発祥といわれているが、同時に関東・東海方面でも木綿が織られていたようだ。武蔵国越生郷(現越生町)上野村聖天宮に伝わる文亀2年(1502年)と記された棟札には、「聖天宮の再建にあたって関係した人々が木綿の反物を奉納した」という記録が残っている。
しかし綿織物が庶民の手に届くのは江戸時代になってからである。それまで庶民の衣類は麻(苧麻や大麻)で作られていた。麻の着物といえば、今では夏の単衣の着物を思い起こすが、庶民はそれを冬は重ね着していたという。
民俗学研究家柳田国男は著書『木綿以前のこと』で、「木綿が庶民に歓迎されたる根拠として、肌触りが良いこと、染が容易であること」を挙げている。また日本中世史研究者永原慶二は「麻布1反を織りあげる労力は木綿の10倍はかかる。木綿がその後急速に普及し、麻に取って代わったのはこのことが最大の理由だろう」と述べている。
こうして、綿織物は庶民の衣類として急速に普及し、まさに、江戸時代は庶民の衣類が麻から木綿へ変わっていった時代だったのである。
農家では稲を栽培する田畑の傍らに綿花(わた)を植え付け、農家の副業として、主に女性が機織り(はたおり)をするようになった。初めは自家用として織られたものだったが、次第に売り買いの対象となり、一大消費地・江戸の隣に位置する県南地域が綿織物の主要産地になるのは自然の成り行きだったと思われる。
昭和41年(1966年)2月15日発行の「わらび市民新聞 第206号」での座談会「蕨の機業を語る」で、蕨での綿織物業が始まった頃について、当組合の発起人でもある野崎新一郎(当時、野崎織物㈱社長、蕨商工会議所会頭)は次のように語っている。

「わしの家の創業は、安政2年(1855年)ということが書類で残されている。もちろん創業当時は今と全く事情がちがい、家のものや作男手伝い女などが農耕の合間に手ばた機械で織っていた。製品は商品として他に売り出されたわけではなく、家族の成員の需要を満たす程度だった。したがって原料となる綿糸も自給で、綿作をやり、手で糸をつむいだものだった。染色も自家でやる。当時は藍染めだから、藍を作って(栽培して)、その葉を自家で発酵させて藍玉を作る。だからわしの若いときまでたいていの農家の納屋に藍甕(あいがめ)があったものだ」

また同じく、当組合の発起人だった原新助(当時、村六産業㈱社長)もこの座談会の中で、「(自分の)家でも藍を作っていたのを覚えている。埼玉はだいたい藍の産地として知られていた」「(蕨での織物業の発展について)東京の板橋と隣接していること、もう一つの大きな理由として、綿糸には一定の湿度が必要だ。したがって湿地帯の蕨がこれを扱うに適したということだ」と語っている。

綿織物業発祥の地、塚越村

江戸時代後期、中山道蕨宿の隣、塚越村(現蕨市)の高橋新五郎は農業の傍ら、近くの農家で紡いだ綿糸を足利や青梅に売り歩くようになった。2代目高橋新五郎は機織りをして織物を売ろうと考え、それまで一般に使われていたいざり機(いざりばた)ではなく、高機(たかばた)を改良して青縞(あおじま)の生産を開始した。文政9年(1826年)のことだった。
2代目高橋新五郎が改良した高機は効率が良く、生産性が上がり、10年後の天保8年(1837年)、「高橋家では機台120台、藍甕300余を備えるとともに染場も設け」多くの人々が綿織物の生産に従事するに至ったという。天保11年(1840年)には塚越村近隣の数十か町村で青縞の生産が行われるようになり、現在の川口市域の横曽根村・芝村もその流れを受けて、綿織物の生産が盛んになっていった。人々は2代目高橋新五郎の功績をたたえ、今も「機神様」として祀っている。
天保8年と言えば、大塩平八郎の乱があった年で、その後、嘉永6年(1853年)の黒船来航、安政5年(1858年)の日米修好通商条約による開国、そして慶應3年(1867年)の大政奉還へと新しい時代の足音が聞こえてきた頃であった。

イギリス製綿糸で「二タ子織(双子織)」生産

そして3代目高橋新五郎は万延元年(1860年)と文久元年(1861年)の2度にわたり、開国後初めて横浜港に入った「機械で紡いだ洋糸(イギリス製綿糸)」をいち早く購入して「二タ子織」を生産し、江戸で売り出したところ評判になり、近隣の機屋でも「二タ子織」が盛んに織られるようになった。それまでは手で紡いだ1本撚りの糸を使ったが、機械で紡いだ2本撚りの「双糸(双子糸)」で織った布は丈夫で、織り上がった後、槌打ち仕上げをすると表面に光沢が表れる美しい織物だった。
なお、「双子織」の起源として、蕨の織物史を研究する潮地ルミは、3代目高橋新五郎が自らイギリス製綿糸を購入したのではなく、絹織物製造家でありかつ買継として手広く商いをしていた川越の買継商正田屋の中島久平がイギリス製綿糸を購入し、塚越村の高橋新五郎と入間郡元加治村(現入間市)の某に製織を勧めたという見解も紹介している。確かな史料がなく、どちらが正しいかは明らかではないが、とにもかくにも、3代目高橋新五郎が「双子織」を売り出し、そのことが県南地域の織物業の発展につながったことは明らかである。
「二タ子織」は明治時代に「双子織」として蕨の特産品となった。縞柄が多く、主に商人の平常着に用いられた。織物が盛んになると蕨宿の中山道沿いでも機屋に商売替えをする家が現れ、機屋から糸を預かって織る賃機農家も増えていった。

埼玉の綿織物生産価額、全国第1位

江戸末期に県内で最も早く高機と洋糸を使った県南地域での綿織物業の発展は目覚ましく、県南西部の入間・高麗でも高機を使って多種類の織物を生産するようになり埼玉県は一躍、織物業の産地として広く全国に知られるようになった。
明治19年(1886年)の「第3次農商務統計表」によると、埼玉県の綿織物生産高は1,612,927反で、大阪府、愛知県に次いで全国3位、同生産価額では839,231円と、両府県を抜いて第1位を占めるまでになった。また同1反当りの価格が0.52円で全国水準の0.44円よりも上回っていることは高価格の製品を産出している証でもあり、まさに、名実ともに全国有数の綿織物の産地となったのである。
因みに、絹織物生産高は全国5位、同生産価額は8位、絹綿交織物生産高・同生産価額は全国4位であった。

明治22年(1889年)、蕨宿と塚越村が合併して蕨町となり、明治26年(1893年)に蕨駅が開設されると、毎月「四」と「九」の日に「市」がたつようになり、東京から直接問屋が双子織を買付けに訪れ、町では買継の組合もできた。
そして明治36年(1903年)に大阪で開催された第5回勧業博覧会に前年設立された埼玉織物同業組合が双子織を出品し評判を呼んだ。同組合が積極的に営業したことも功を奏して、四国や九州にまでその販路は広がっていった。この頃から明治末期にかけてが双子織生産の最盛期であった。