埼玉織物の歴史 第5章

第1 節 武蔵浦和駅周辺再開発計画決定

埼京線武蔵浦和駅開業、街づくり協議会結成

当組合が浦和市(当時)北浦和から移転した昭和36年(1961年)当時、沼影は広大な田畑が広がる田園地帯であった。
埼玉県との協議を経て、当組合の加工工場(共同施設)と事務所が浦和市沼影に設置されたのだが(73頁参照)、作業環境としては申し分なく、組合員はこの工場を活用し、主要産地ならではの優良製品を国内外に製造販売し、高い評価を得ることができた。
その後、沼影一帯は昭和39年(1964年)から昭和54年(1979年)にかけて、土地改良事業が行われ、道路が整備されたことにより宅地化が進んだ。その間、日本の繊維産業は日米貿易摩擦により、厳しい状況に陥った。第4章で述べたように、当組合もその影響を受け、加工工場の稼働率も低下していった。昭和50年代末には加工工場・事務所の規模を縮小し、建物や立看板の賃貸などをしながら新たな事業を模索していた。
そんなとき、一大転機が訪れた。埼京線の開通である。昭和48年(1973年)4月に開通していた武蔵野線と埼京線が交差し、昭和60年(1985年)9月、交差駅として「武蔵浦和駅」が開設された。
浦和市(当時)ではすでに昭和59年(1984年)に武蔵浦和駅の駅前広場と関連道路に関する都市計画が決定されており、昭和61年(1986年)には市政振興計画として武蔵浦和駅周辺を副都心と位置づける再開発事業が始まった。その再開発の予定区域に当組合があったのである。
昭和62年(1987年)4月には武蔵浦和全体の街づくりを考える「街づくり協議会」が設立、同12月には地権者や住民と「第2街区再開発準備組合」が発足した。
翌年には「武蔵浦和駅周辺マスタープラン」の策定が行われ、2月に総合コンサルタントとして㈱アイ・テック計画、参加組合員予定者として㈱リクルートコスモス、事業協力者として㈱錢高組がそれぞれ決定された。3月には「施設計画」(現ラムザ)で施設専用割合を、住宅50%、商業50%とした。その割合について、バブル期だった平成2年(1990年)には業務床主体に修正されたが、バブル崩壊後の平成5年(1993年)には住宅50%、非住宅50%に戻された。
㈱アイ・テック計画代表取締役の曽根伸穂氏は「浦和市のマスタープランでは施設専用割合が明確に書いてなかったが、住宅が大部分では副都心の姿ではない、できるだけ業務施設をというのが要望だった。最初は(企業からの)申込みも多かったがバブル崩壊で見直さざるを得なくなり、住宅中心に切り替えようということになった。しかし浦和市がマスタープランの枠でやってくれということで守らざるを得なかった」と語っている。

再開発ビルの権利床利用について、県知事へ報告書提出

ところで、埼京線開通前後、再開発計画に関連する情報がいつ頃当組合に入ったのだろうか。当時の会議資料にはそれについて記されておらず、はっきりしたことは分かっていない。
資料の中で再開発に関する事項が初めて見られるのは、昭和63年(1988年)9月14日である。中村末吉理事長(第5代、当時)はその日、埼玉県知事宛に「武蔵浦和駅西口第2街区における再開発ビルの権利床の利用について」というタイトルで、以下のような報告書を提出している。
「当組合の権利床約1700㎡(共用部含)の主用途案を明記する。①展示室、②即売室、③事務所、④会議室・研修室、⑤資料室、⑥応接室、⑦娯楽室、⑧梱包縫製室、⑨駐車場」

再開発計画で最初に着手されるのが「第2街区」(現ラムザタワー)であり、そこには当組合の加工工場(共同施設)と事務所の敷地も含まれていた。前述したように、昭和63年3月に施設計画の概要が決まったことから、当組合の使用案をまずは埼玉県に提示したのである。
この時点で当組合は、借地権をもって再開発ビルに権利床を確保し、組合事業の推進を図ることを決定したと思われる。しかしそれを正式に決定するのは、少し先のことになる。まずは、埼玉県との権利関係を明確にしておくことが先決だった。
同年10月には埼玉県と「借用地に関する覚書」を締結した。
そして平成元年末に平成2年(1990年)4月1日の賃借料(借地料)更改に際しての継続手続き申請の案内が県から届いたことを受けて、平成2年2月に「公有財産貸付申込書」、3月に「県有財産継続借受要望書」を提出した。そこには「県内織物工業の発展振興のため」という借受理由と共に、組合収支の悪化により賃借料(借地料)の減免を願う文言も見られ、当時の組合の厳しい財政状況が窺える。
そして3月31日、埼玉県と「県有財産賃貸借契約書」(平成2年4月1日~平成7年(1995年)3月31日、賃借料年額3,561,883円)を締結した。

第2節 共同施設賃借料について埼玉県と協議

賃借料(借地料)値上げの内示

翌年の平成3年(1991年)7月、埼玉県管財課より、「平成4年度の賃借料を12,466,592円とする」との内示があった。
突然だったことはもちろんだが、従前の3.5倍という予想もしない金額に、当組合はただただ驚愕した。その当時の組合の財政状況では支払うことは不可能な数字であった。そのことは前年の更改時に県へ提出した文書でも記しており、県でもそのような状況は把握していたと思われるため、なおさら驚かされた。
もっとも、当組合のある場所、即ち県有地に再開発計画が存在していることはこの時点では明々白々であり、県としては「この際、賃貸契約を打ち切りたい」という意図があったのではないかという、穿った見方もできる。
それはともかく、組合存続のためには、この状況を何とか打開しなければならない。当組合は同年5月に就任したばかりの第6代関口登理事長を中心に、県管財課と交渉を重ねた。その結果、11月に県管財課より「8,331,000円」の再内示があった。
それでも当組合にとっては厳しい数字である。その後も県に陳情を行ったが好転することなく、平成3年が過ぎていった。

賃借料(借地料)据え置き決定

平成3年(1991年)末から平成4年(1992年)の年明けは、賃借料(借地料)値上げを阻止するための資料作りに追われたことだろう。
記録によると、「平成4年1月14日に平成3年度収支予算書を県に提出、説明した」とある。その文書と併せて、「当組合第40期~第44期(昭和61年度~平成2年度)の決算状況一覧表」及び「県有財産の当初から昭和62年(1987年)までの貸付料に関する計算書」が遺されている。両文書を上記「収支予算書」と共に県に提出したのか、あるいは県に説明するための資料だったのかは定かではないが、当時の当組合が県に対して、何とか値上げを撤回してくれるよう、必死に陳情したことが見て取れる。
2月14日、県管財課に呼ばれ、当組合から3名が出向いた。そこで先に提出した「平成3年度収支予算書」に関し、現金・預金額や看板料を含む収益状況、そして埼玉綿スフ織物工業組合の経理内容など、具体的な項目について質問を受けた。当組合ではそれらに対応すると共に、「経費は最低水準であり、賃借料が低ければ事業継続が可能」と訴えた。
3月11日には関口理事長より畑和埼玉県知事(当時)へ「県有財産貸付料改定についてのお願い」(103頁参照)を提出した。
そしてその後も引き続き、県管財課との交渉を重ねた結果、3月30日、「平成7年(1995年)3月31日まで、賃借料(借地料)従来通り据え置き年額3,561,883円」と決定された。

全組合員へ借入れ要請

こうして結果的に賃借料(借地料)が据え置きとなったが、その間、交渉を進めながらも、交渉がうまくいかなかった場合を見越して、平成3年(1991年)11月の内示額「8,331,000円」を準備するための検討を重ねた。
そして平成4年(1992年)1月29日に臨時総会を開催、県との交渉状況を説明したうえで、全組合員に対し、借入金8万円、組合費1万円を提案、全員が了承した。
2月17日、関口理事長から全組合員へ3月10日までに「①借入金8万円、②平成3年度分の組合費として1万円」を振り込むよう振込依頼書を発送した。
これにより、内示額と従来の賃借料との差額を組合員からの借入金で補うことができ、最悪の事態は回避することができた。関口理事長はじめ組合幹部はなお一層、県との交渉に力を尽くした。
幸いにも102頁で述べたように、年度末ぎりぎりの3月30日に、平成7年(1995年)3月31日まで従来通りの賃借料(借地料)が認められたが、この組合員からの借入金は今回のような緊急時のために組合にて留保された。

第3節 再開発事業計画を当組合の主事業とする

再開発計画、2棟建設に変更

当組合が賃借料(借地料)について埼玉県と交渉を続けている間、再開発計画事業に大きな進展は見られなかった。リクルート事件やバブル崩壊などの影響により、再開発事業は一時停滞を余儀なくされたのである。
再び動きだしたのは平成5年(1993)年頃からだった。平成3年(1991年)の300社に続いてこの年、平成5年にも150社に対し、業務用として再開発ビルへの入居を希望するか否か、アンケートを行ったが「希望者がほとんどなく、施設計画を住宅50%、非住宅50%に変更した」。
また当初は超高層ビル1棟の予定だったが、平成6年(1994年)3月に埼玉県民共済生活協同組合・全国生活協同組合連合会から業務床取得の申込みがあり、「大規模だったため1棟で独立させた方が良い」とのことで、2棟建設に設計変更があった。
そして平成6年9月、埼玉県知事より事業の施行認可が下りた。

県と共同歩調で再開発に関わる

当組合が「第2街区」の再開発計画に本格的に関わるようになったのは平成4年度(1992年度)4月からだった。同年5月に行われた定時総会で関口理事長は武蔵浦和西口再開発準備組合の事業状況を報告すると共に、「武蔵浦和西口再開発準備組合の事業計画を当組合の事業計画とする」と宣言した。
平成4年末には、石田勝之県議(当時)を通じて、再開発に対して、県との懇談会開催を要望した。翌平成5年(1993年)3月の理事会議事録には「埼玉県が1月に準備組合(98頁参照)に加入したので、当組合正副理事長が埼玉県を訪問した。その際、地権者のみの話合いを提案し、4月7日に当組合事務所で行われることになった」と記されている。
また5月の定時総会では、「①当組合理事長は準備組合の副理事長として協力している。②再開発に対して埼玉県と共同歩調をとって取り組んできた。今後も同様に進めながら関わっていく」と組合員に説明している。なお、この総会後の理事会で関口理事長が辞任、土屋卓雄理事が第7代理事長に就任した。

組合収益増を図る

当組合は平成4年(1992年)3月に組合員への借入れを行ったが、4月には事務所経費削減のため、契約電力37KWを1KWに変更、基本料金37,740円が1,020円に、電話機1台を撤去した。契約電力1KWとは、工場がほとんど稼働していないと思われる。
当時の決算書を見ると、家賃、立て看板料、という項目が目につく。組合関係企業数社に施設の一部を貸与し家賃収入を得る、また道路に面して立て看板を設置し、大手電機店や金融機関広告を掲載、さらにアタッシュケースの販売も行っていた。平成4年度の家賃収入は3,630,000円、平成4年4月から12月の立て看板掲出料は延べ8件で103万円、同アタッシュケース売上入金額312,000円という記録がある。
織物とは関係のない分野であっても、収益になりそうなことは何でもやってみる、どんなことをしても、計画施設の完成を待つ、再開発計画に組合の将来を託す、組合員はそんな気持ちだったと思われる。
平成6年(1994年)5月の定時総会で組合費が2万円に増額、土屋理事長は「組合費未納者には内容証明郵便を発送、場合によっては出資金を返還したい」と発言。厳しい経営状況の中、何としてもこの事態を乗り切るために、組合の方針に非協力的な組合員は脱退しても致し方ない、という強い意志の表れだった。
なお、このときの総会で、4月の理事会で石田勝之衆議院議員(当時)が当組合顧問に就任したことが報告された。
また平成6年11月に県から「平成7年(1995年)3月31日で県有財産貸付契約満了」の通知が届き、同12月に土屋卓雄理事長から埼玉県知事に「公有財産貸付申込書」を提出した。使用目的は事務所、使用期間は平成7年4月1日~平成12年3月31日であった。
この段階では賃貸料(借地料)についての協議はなく、県と当組合の交渉は両者の権利取得割合が議題となっている。

第4節 借地権変換、ラムザ権利床決定

権利変換について、県と協議を重ね、登記完了

平成7年(1995年)は権利床の割当(使用割合)を巡り、県との交渉が続いた。
昭和63年(1988年)に交わした「覚書第3」(100頁参照)では「10年間、売らない、貸さない」という厳しい条件がついており、このままでは権利床を取得しても組合の運営は大変難しい事態になることは目に見えていた。
平成7年1月には当組合から県に対し、「①業務床15坪(約50㎡)は組合事務所として使用 ②商業床20坪(約65㎡)は組合員の織物の展示・販売の場として使用 ③住居床465坪(約1583㎡)は組合員の福利厚生のために使用する と提示した。またこれ以上に県が業務床の取得を要求したときは賃貸を容認することを希望」という内容を提示した。
それに対し、県では「住居床を大部分取ることは県としては望ましくない。業務床を多く取得するように、その場合県関係が借りるよう努力するが、できないときは貸してもよい」ということであった。しかし土屋理事長は「10年後を考えると住居床がいい。当組合として、業務床は150坪が限度である」と、7月12日に緊急理事会を開催して、各理事と協議を行った。その結果、「業務床150坪、商業床20坪、その他は住居床」で、県と再折衝を行うことになった。土屋理事長は「この時点では、交渉がうまくいかない時は『捺印拒否』という事態も予想される状況だった」と権利床決定後の報告会で語っている。
交渉を重ねた結果、7月末になって、以下のような最終案で決着した。その際「諸状況の変化に従い、一部を賃貸する場合がある」について、県の了解を得ることができた。
その後、土屋義彦埼玉県知事(当時)に、権利床の利用について下記文書を提出した(当組合に遺されている文書には、9月27日に提出というメモ書きがある)。

買上げ代金の10%を保証金として預託

昭和50年(1975年)になっても当組合を取り巻く苦しい状況は変わらなかった。同年8月29日付けで、埼玉綿スフ織物工業組合に向けた綿工連からの通達は「織機登録特例法に基づく織機の買上げについて」であり、最近の業界の不況事態に対処するため残りの買上げを早急に実施すべきであるとの考えのもと調整委員会で検討された結果、買上げ計画を実施することになったといった内容で、相変わらず「不況対策イコール織機買上げ」の構図は変わらなかった。
昭和52年(1977年)になると綿工連は「中小企業振興事業団法(昭和42年施行)に基づく設備共同廃棄事業制度」を利用して、過剰織機の買上げ破棄事業を開始した。この買上げ廃棄事業によって廃業した事業者は、代金受領の日から16年間、新たに織物業を始めたり、織物事業の代表権を有する者となってはならないといった規程があった。また同様に、事業縮小のために織機を買上げてもらった事業者も16年間設備増設を禁止された。これらの規程を守るための「保証金」として、買上げ代金の10%を参加組合を通して、無利子で綿工連に預託することが求められた。買上げ代金支払い日から16年間経たなければ「保証金の払戻し請求はできない」と規程書に記されていた。
9月15日、「武蔵浦和駅第2街区第一種市街地再開発事業個人施行者(代表者 細渕秀雄)より、当組合宛に権利変換計画認可が通知された。
その後、最終案の通り、当組合の権利床が正式決定、同年12月19日、新ビルでの当組合持ち分登記が完了した。
なお、事業床の借り手について、県から「県庁あるいは県関係団体を対象に」ということだったことから、その後も県との折衝を重ねた。しかし平成9年(1997年)10月、急遽、事業床(業務床)について県関係の借用がなくなったとの連絡が入り、当組合にてテナント募集等を行わなければならなくなった。仲介業者を募集、組合員優先で厳選し、テナント募集に当たることとなった。
同年12月には、部屋割りも決定した。

補償金交渉、契約締結

立ち退きに関わる補償金については再開発組合との交渉であったが、同組合からの当初の提案はかなり少なめであった。とくに営業補償として「工場稼働時の収益を勘定してほしい(原文通り)」と申し入れたが、査定時点が問題となった。最終的に平成5年(1993年)時点での査定になったが工場収入が入らず、厳しい状況だったが、看板料や事務所移転費、登記料などを追加して、平成7年(1995年)10月、契約を締結した(分割払い)

事務所移転、工場・事務所解体

を納入、組合員からの借入金、各8万円を10%の利子を付けて返済した。平成8年(1996年)6月の定時総会は、全組合員の慰労を兼ね、またご尽力いただいた石田勝之議員も招待し、東山温泉(福島県)「東鳳」で開催した。

ラムザ建設着工

平成7年(1995年)9月、建築確認、権利変換計画が認可され、10月1日に「第2街区」の再開発ビル建築が着工された。翌年5月に、以下の5つのキーワードをもとに、「ラムザ LAMZA」と名付けられた。
8月には分譲マンションのモデルルーム公開、9月から販売が開始された。

Love(愛にあふれ、愛ある人が集い)
Amuse(楽しみ一杯の、豊かな時間があふれる)
Musashiurawa(武蔵浦和の)
Zone(街区で)
Advance(進歩、発展を願って…)

平成9年(1997年)3月、管理会社「ラムザ都市開発」の設立総会が開催された。当組合では2月に同社に対し、30株(150万円)を出資した。

第5節 埼玉綿スフ織物工業組合、解散へ

設備登録制、平成7年までに廃止

織機の過剰設備を防ぐために設けられた設備登録制だが、綿スフ織物調整規則、織機設置制限規則共に昭和61年(1986年)以降、段階的に規制が緩和され、平成4年(1992年)には廃止されることになった。平成元年(1989年)からの日米構造協議を通じて規制の見直しが行われることになり、平成3年(1991年)7月に公正取引委員会から早急に見直し、廃止の方向で検討すること、同年12月通産省では現行設備登録制を平成7年(1995年)10月末までに段階的に廃止していくという方針が出された。
埼玉綿スフ織物工業組合では、平成4年1月に開催された当組合との合同での臨時総会で登録制廃止に合意することを決議し、早速綿工連を通じて通産省生活産業局宛に必要書類を提出した。それに伴い、当組合においても平成7年11月1日以降、登録制廃止に合意することを決議した。
さらに埼玉綿スフ織物工業組合は綿工連の指示により、同年4月3日に商工組合の認定書を提出した。これにより、同組合は登録制全廃となる平成7年以降、商工組合として再出発することになった。

保証金返還始まる

昭和52年(1977年)から昭和57年(1982年)にかけて、「綿スフ織物用織機共同廃棄事業実施要領」に基づき織機を売り渡した者は買上げ代金の10%を保証金として無利子で綿工連に預託しなければならなかった(95頁参照)。その預託金は16年間払い戻し請求ができないことになっていたのだが、16年が経過し、平成6年(1994年)3月から保証金の返還が行われることになった。それに伴い、綿工連と埼玉綿スフ織物工業組合との間で、「保証金の円滑な返還」を実施するための覚書を取り交わした。
平成5年(1993年)12月に開催された当組合の理事会で「昭和52年度分が平成6年3月29日に返還されること、返還は約20%控除されて行われる」と報告があった。
綿工連によると、「16年間の資金運用が当初の計画より下回り、中小企業事業団借入金の返済に不足が生じたため保証金を取り崩して返済に充当した」とのことであった。またこの件に関し、同封したハガキにて、至急、同意の意思表示をお願いしたい、同意いただけないときは返還できない可能性がある、ということも記されていた。
なお、3月29日には、当組合15社分5,188,233円の保証金が返還された。

埼玉綿スフ織物工業組合、解散決議

昭和29年(1954年)に埼玉綿スフ織物調整組合としてスタートした埼玉綿スフ織物工業組合だが、昭和60年代以降はほぼ休眠状態にあった。平成6年(1994年)以降は上記保証金の返還手続きが主な仕事であり、事業報告では「事業を行っていないが、綿工連との関係を続ける必要がある」「当面事業は行わないため、予算も立案しない」という記述があるのみである。
平成15年(2003年)6月の定時総会で解散が決議され、その後、残資産分配完了後に解散した。