埼玉織物の歴史 第4章

第1 節 構造改革という名の逆風

綿スフ織物産地構造改革事業スタート

昭和41年(1966年)は政府による景気刺激策の結果、国内景気はやや上向きとなったものの、綿織物業については不況が続いていた。そこで綿工連が、綿織物業者の設備近代化、過剰設備の廃棄、転廃業の円滑化など業界全体の構造改革を政府に求めた結果、打ち出されたのが「綿スフ織物産地構造改革事業」であった。
当組合でも、昭和41年10月の役員会で「綿スフ織物産地構造改革事業の推進について」という議案のもと、昭和42年(1967年)3月までに当産地の構造改革計画を策定して通産大臣の認定を受けるようにしたい旨が話し合われた。
この綿スフ織物産地構造改革事業を具現化するため、政府は昭和42年7月「中小企業振興事業団法」を成立、8月施行した。続いて「特定繊維工業構造改善臨時措置法」を公布・施行した。構造改革事業を実施するために「中小企業振興事業団」を設立させると共に、「繊維工業整備促進協会」を改組して「繊維工業構造改善事業協会」を設立した。分かりにくい構図ではあるが、これら新たな組織が主導して、各産地の構造改革事業がスタートすることになった。

零細企業集約化と廃棄事業推進が大きな柱

構造改革事業とはどのような中身だったかといえば、「零細企業の集約化」と、過剰設備の廃棄を進めるために「廃棄事業を推進すること」が大きな柱になっている。昭和42年(1967年)2月に綿工連から埼玉綿スフ織物工業組合へ送られた文書には、以下のように記されていた。

<企業の集約化について>
企業の零細過多性に苦しむ織布業にあっては企業の集約化が重要である。産地組合が一括して近代化設備を取得し、これを組合員に貸与する方式を取ることで、効率化と企業の集約化を図ること。産地組合は企業集約化に要する資金の円滑な調達を図ること。
<廃棄事業の推進について>
現在、大幅な過剰設備が存在しており、設備近代化に伴う能力増もあることから、構造改革対策完了時には126,000台の過剰が推定される。これを放置すれば近代化投資の投資効率が著しく阻害され、産地構造改革の実をあげることが非常に困難となる。構造改革対策の進展に伴い相当数の転廃業が生じることが予想されるので、繊維工業構造改善事業協会が、全国的に転廃業者の設備を買い上げて廃棄する。

構造改革という名のもとで、零細事業者の転廃業はやむなし、というような雰囲気が見て取れる。
実は構造改革事業が本格的に始動するのに先立ち、昭和41年(1966年)12月、「綿スフ織布業構造改革対策について」と題された小冊子を綿工連が作成して、各地の綿スフ組合に配布しているのだが、そこには次のように述べられている。
「韓国や台湾などの綿布業の労賃が日本の3分の1から4分の1であり、低級品を織っていたのでは立ちいかなくなることが目に見えている。この構造改革は、小規模な機屋さんでも自ら生き延びようとする人には積極的に手を差し伸べるものである。小規模な人はグループ化して大きくなればよいわけで、そうしないのは協調しようという気持ちがないからではないか…」

転廃業促進のための織機買取り

構造改革事業が本格的に始動する前年の昭和41年(1966年)、政府は「繊維工業設備等臨時措置法」(繊維新法)に基づいて「繊維工業整備促進協会」を設立し、5.5億円を計上して転廃業設備の買上げ事業に着手した。
この転廃業設備買上げに必要な組合分担目標額として、昭和41年12月31日時点の組合員の登録織機台数×300円を収めるよう綿工連から求められているのだが、当組合員の織機台数総計は2,128台であったことから、638,400円が必要とされた。昭和42年(1967年)3月の役員会でもこのことが話し合われ「不況の中、この分担金を組合員から徴収することは容易なことではない」と悲痛な叫びが残されている。当組合には換算台数で19台の織機買取りの割当があったが、ちょうど川口の一事業者が買上げ希望を出していたため、「その事業者へこのことを話して善処してもらうしかない」ということになった。
昭和41年から42年にかけて、全国の転廃業する業者から綿スフ織機2,265台が買い上げられ処分された。
なお、当組合に「財団法人繊維工業整備促進協会の織機の買収等に関する業務の細則」及びその「業務方法書」の写しが残されているが、織機の処分に関する内容はあまりにも容赦のないものであった。以下、抜粋する。
・買取り対象事業者:織布業のすべての部門の事業を完全に廃止する者であること。したがって当協会が買収する織機以外の織機は、破砕または第三者に売却するなどの方法で完全に処分する者であること。
・買収価格:協会が買収する特定織機の価格は、細則で定める金額に当該特定織機を屑として売り渡して得られる収入に相当する金額を加算した金額とするものとする。
・処分業務:協会は、買収契約の成立後、速やかに買収物件を屑として売り渡し処分するものとする。
・破砕:協会は、一定の期日、場所及び細則で定める破砕方法を指定し、買取者に対して、売買契約に係る買収物件を、協会の職員の立会いのもとに破砕させるものとする。
・破砕の方法:織機の細部についてそれぞれ二分割以上に破砕することとする。サイドフレーム、トップレール、フロントレール、バックレール、ブレストビーム、バインダー及びバックレスト。
・設備買収後の措置:当協会に織機を売り渡して転廃業した者及びその代表権を有する者は、織機の売渡し後5年間は新たに織機を設置し、または新たに織機を設置する者の代表権を有する者となってはならない(違反した場合は違約金を支払う義務が課せられる)。

廃棄した織機は鉄屑として扱うわけだが、実際に大きなハンマーで織機を破砕する現場に立ち会った組合員は「とても見ていられる光景ではなかった」と当時のことを振り返っている。
昭和42年度以降、構造改善事業が推進される中で綿布業の設備廃棄事業は、
(1)転廃業者の設備買取り廃棄
(2)上乗せ廃棄
この2つの方法が取られることになる。上乗せ廃棄とは、近代化設備新設の条件として、一定率の老朽旧設備を廃棄する義務を課したものである。これらの買取り廃棄事業の主体となったのは、「繊維工業構造改善事業協会」(繊維事業協会)であった。
政府は買取り事業には、多額の資金を一気に投入して進めることが重要との見地から、転廃業者の設備買取り廃棄に15億円、上乗せ廃棄に48億円の予算を計上し、買取り廃棄に必要な半額を負担することとした。
こうして織機の廃棄と綿織物事業者の転廃業推進は、加速されていくことになる。
埼玉綿スフ織物工業組合の「事業報告書」によれば、昭和41年度3月末日の「綿スフ登録織機及び制限外登録織機」の数は、実台数合計2,011台であったが、昭和42年度では1,730台と、300台近く減少している。

第2節 共同施設廃止に向けての動き

工場設備を賃貸して収入に

綿織物業界全体が不況であえぐ中、当組合でも一つの動きがあった。それは、共同施設の一部を賃貸して収入を得ることであった。関東レザー㈱から「設備の一部を改装したい」との申入れがあったことが、昭和41年(1966年)10月の役員会で議案となっている。これに対して「現に貸し付けてある工場内の乾燥室を物入れにする件は差支えない」と記されていることから、以前から賃貸契約が始まっていたものと思われる。工場一棟(75坪)を年契約で昭和41年から(日付は入っていない)同社に賃貸することを記した契約書原案が遺されていることから、おそらく賃貸が始まったのは、この年であったのだろう。
さらに10月の役員会では関東レザー㈱からの申入れに対して「工場南側に間口5間奥行1間の下屋を建てることは県有地を借用している関係上好ましくない。先方に設計図を提出させて検討すること。西側に自転車置き場を設置したい希望については、これを工場南側に、休憩室用下屋に隣接して建てること。なお、工事費一切は借受人が負担することとし、建物は当組合の所有とする。賃貸料は坪500円とする」と一部改装を認めている。
このような記載から、すでに共同施設が多くの組合員に頻繁に利用される状況ではなくなっていた可能性が考えられる。昭和42年(1967年)3月の役員会でも「共同施設の運営について」という議案の中で「次回役員会までに、収支を検討して、(共同施設の)存続か廃止を決定すること」と記されている。
では実際収支はどのような状況であったかというと、昭和41年度の共同施設運営による工賃収入は287万円であるのに対して、諸経費はおよそ384万円で、年間97万円の赤字となっている。同年4月4日の正副理事会ではこのことに触れ「逐次休業廃止の線を打ち出すことで意見の一致をみた」と共同施設廃止の方向性が示されている。
昭和42年5月の役員会では、さらに踏み込んだ議論が行われた。「本年も昨年同様、赤字決済は免れないが、このような状態ではいかに地方産業振興のためとはいえ、組合の体質を改善することは困難と思われるので、操業を取りやめるほかあるまいと考える」といった中村副理事長の発言に対して、野呂監事は「全面的に支持する」と同意した。山岡理事から「私は利用者の一人であるが、重要問題なので操業を取りやめるかどうかは十分検討すべき」と意見が出され、その後出席者のほぼ全員が意見を交わしたところ、「操業を取りやめるべきだとの意向が支配的だった」と結ばれている。決定は通常総会の決議に従うことになった。
ところが不思議なことに、同年5月24日に行われた当組合通常総会で、共同施設の運営に関する議案が取り上げられることはなく、予算案も問題なく通過している。その後の決議録を読むと、この問題が再び取り上げられるのは昭和43年(1968年)12月の役員会のことになる。そこでは、染色整理工場の生産額が月平均197,858円であるのに対して、給与の月平均が129,160円であること、整反工場の生産額が月平均266,557円であるのに対して給与の月平均が236,193円であること、さらに固定資産税の納付、借入金の返済状況、ボイラーの修理費、燃料費などについて事務局から詳細な説明があった後で審議が行われ「共同施設の事業運営の安定を図ることが急務」として正副理事長が対策委員に任命されている。
そして昭和44年(1969年)2月「高温高圧染色機」を売り渡すことを決定した。さらに「染色整理工場」は「そのまま賃貸、機械装置等を売却、建物を他の工場もしくは倉庫として賃貸」以上3案の中から決めることとし、「整反工場」についても「そのまま賃貸、他の工場もしくは倉庫として賃貸」とすることが役員会で決められた。染色整理工場と整反工場については、従来の原反供給元であった浜野繊維工業㈱を対策委員が訪ね、希望を確かめることになった。
こうした経緯を踏まえ、共同施設の一部を賃貸することなどが、昭和44年5月の通常総会で承認されることになる。その内容とは、
1.整理工場(125坪)は産地産業振興の見地から、共同施設として操業を続ける。
2.整反工場(48坪)は43年度の業績等を検討した結果、従来の原反供給元である浜野繊維工業㈱か他の適当な人に賃貸するか、倉庫等に利用もしくは他に賃貸する。というものであった。
昭和44年7月15日、以前から賃貸借契約を結んでいた関東レザー㈱と1年間賃貸借契約を延長し、工場一棟(75坪)を工場用として月10万円で賃貸した。
次いで同月29日には浜野繊維工業㈱浦和工場と3年間の賃貸借契約を結び、整反工場(48坪)を月8万円で賃貸することになった。
関東レザー㈱とは、昭和45年(1970年)7月15日に、5年間の賃貸借契約を結び、月125,000円で75坪の工場一棟賃貸を延長している。事業決算報告書の数字(次頁参照)からも共同施設の賃貸借契約が、当組合の貴重な収入源となっていったことがよく分かる。
昭和48年度(1973年度)まで、毎年工賃収入に変動はあっても、家賃収入約270万円は、ほぼ変わらず当組合の安定した収入源となっていた。

進まない製品値上げ交渉

昭和42年(1967年)9月15日、野崎新一郎代表理事辞任に伴い新たに飯田忠雄が第4代理事長に就任した。構造改革事業の影響で組合員の転廃業が相次ぎ、共同施設も採算割れを起こすなど厳しい状況下での就任であった。因みに当組合では、昭和35年(1960年)から昭和44年(1969年)までの10年間に94業者のうち廃業11、転換17と組合員の3分の1が綿織物事業から去っている。
組合員の経営状態を改善するために、当組合が取り組んだのは、織工賃引上げと生産品の値上げ交渉であった。
昭和42年11月、大阪にて綿工連傘下の主要敷布産地組合による「全国敷布関係組合懇談会」が開催され、埼玉綿スフ織物工業組合も参加した。そこで糸価の急騰、従業員のベア決定等が生産コストの上昇を招く要因となり、業界が正常な経営を維持するためには、現在の敷布の価格水準を15%アップせざるを得ないことが確認され、「懇談会」に参加した埼玉・所沢・三河、大阪南部、播州の6組合は同月、それぞれの取引商社に適正価格の確保、即ち、現在の敷布の価格水準15%アップについての協力を要請する文書を送付した。
12月の役員会では「当組合独自の値上げ要望書」の作成を決定し、同月末、「生産品の適正価格確保についてのお願い」と題した製品価格15%値上げの要望書を組合員の取引商社に発送した。
その成果については不明だが、昭和45年1月、当組合では「織物の適正価格についてのお願い」及び「敷布の適正価格についてのお願い」として、綿織物製品の価格を15%以上引き上げるよう、再び取引商社に要望書を送っている。
また当組合の敷布関係業者19名が2月21日に打合せ会を開催して「敷布原価計算書」を作成することを決め、3月7日には完成させた。値上げ交渉の根拠を明らかにした。因みに、同計算書では原料費・織布費・一般管理費に分けて合計28項目について算出し、100匁当たりの原価計算単価は365円としている。
そして同年4月、「敷布タオル取扱商社」宛に「敷布、タオルの適正価額について再々度のお願い」として、今度は埼玉・青梅・所沢の各組合連名で「現在価格の15%増の値上げ」を要望した文書を作成し、配布した。その後、5月に上記3組合で打合せを行い、引き続き協力することで一致した。
一方、当組合では6月に取引商社5社と当組合員20名で懇談会を行った。その結果がどのようであったかは不明だが、8月1日の役員会の議事録によると、「生産品の適正価格維持について協議し、敷布関係については後日改めて関係者による懇談会を開催する」と記されている。
このように織工賃引上げと生産品の値上げ交渉は非常に厳しいものであった。

なお昭和44年7月5日の理事会において、飯田理事長から辞任の申し出があり、副理事長の中村末吉が第5代理事長に就任した。

第3節 加速する織機買取り

対米自主規制下で進められた買取り事業

日本の綿織物は昭和32年(1957年)に締結された「日米綿製品協定」によって長い間規制を受けていたが、昭和44年(1969年)に大統領に就任したニクソンは、毛・化学繊維製品も規制することを選挙期間中の公約に掲げていたため、就任後、日本に対して繊維製品全般の輸出を自主規制するよう圧力をかけてきた。これに対して日本は繊維産業界の反対もあって強く抵抗していたが、沖縄返還などの裏事情もあり、昭和46年(1971年)3月繊維製品の対米輸出自主規制を決めた。
政府は同年5月、自主規制によって打撃を受ける繊維産業に対して、600億円の予算をつけ、設備の買上げと長期低金利融資を柱にした「対米繊維輸出自主規制に係る特別措置」を決定した。買上げ実施機関は「繊維工業構造改善事業協会」である。
6月になると、当組合でも対米輸出自主規制に関連して過剰織機の買上げが行われることが話し合われているのだが「産地の将来に影響する重大問題なので、役員は地区の組合員の意向を聞き、組合全体としての意志を決めたい」と警戒感をにじませた言葉が遺されれている。これまでにない予算規模による政府主導の織機買上げに、不安を覚えたのかもしれない。
「対米繊維輸出自主規制に係る特別措置」による織機買上げは、極めてスピーディに進められた。当組合内で買上げ希望のあった織機は489台に達したが、そのうち買上げが決定されたのは117台であった。8月には買上げ予定事業者にヒアリングを実施し、9月3日繊維産業特別対策協議会が買上げを承認した。その後2工場9台が買上げを辞退したため、結局108台の綿スフ織機を11月1日に破砕した。買上げ織機代金26,364,000円が当組合に入金されたのが12月4日で、同月14日には各組合員に支払いを行っている。
一方融資に関しても、9月の役員会で当組合に割り当てられた資金12,403,000円を商工中金から借り入れることが議案となり、一組合員に転貸する際の最高限度を250万円にすることが10月に決められている。
昭和46年8月~9月といえば、ドルが金本位制を廃し、世界の通貨が変動相場制へと移行していくドルショックの真っただ中である。「激動期に対処するため組合員、組合、繊維協会、県が密接に連携すること」と9月の役員会でドルショックについて当組合でも触れている。

日米繊維協定による「臨時繊維産業特別対策」

アメリカとの貿易摩擦は対米輸出自主規制で済むかと思われていたが、日本側の読みは大きくはずれた。アメリカは昭和46年(1971年)9月、日本の繊維製品に一方的な輸入制限を加えるといった最後通牒を突き付けてきたのである。これ以上の交渉は不可能と判断した日本政府は、アメリカ側の厳しい要求をほぼ飲む形で、同年10月「日米繊維問題の政府間協定」(日米繊維協定)に仮調印することになる。(昭和47年(1972年)1月日米繊維協定に正式調印)。
その一方、甚大な損害を被ることが予想された繊維業界に対して、政府は約2,000億円の予算をつけて救済処置を実施することを決定した。それが「臨時繊維産業特別対策」と呼ばれるものであり、過剰織機の買上げと長期低利資金の融資などが対策の主な柱であった。
具体的内容は、換算台数で織機1台について、事業を廃止する場合は25万円、事業を縮小する場合は22万円を全額政府が支出して買い取ることとし、廃業者は10年間新規開業を禁止すること、縮小業者は10年間増設を禁止することなどが義務付けられている。買上げ実施機関は「繊維事業協会」であった。
「臨時繊維産業特別対策」による織機買上げは、「対米繊維輸出自主規制」の時と同様、極めて迅速に行われた。当組合で昭和47年1月10日買取り希望調査を実施したところ、事業廃止215台、事業規模縮小100台であることが分かり、1月13日過剰織機買上げ希望産地説明会を開催した。
1月30日に買取りに関する保証金、手数料、振興基金出捐金を取り決めた後、2月2日買上げ廃棄計画承認申請書を提出し、3月29日には、215台分の買取り金60,848,000円が入金された。織機が実際に破砕されたのは、昭和47年6月のことであった。
昭和47年10月の役員会で今回の買上げについて報告が行われているが、事業廃止は5工場(織機215台)、規模縮小は16工場(織機100台)合計315台が処分され、買上げ代金85,146,000円と鉄屑として売却した1,729,332円の合計86,875,332円が組合員に支払われる総額となっている。
ただし、買上げ代金の10%を出捐金として振興基金に積み立てることが繊維工業構造改善事業協会から求められている。振興基金とは、繊維業界発展のための新商品開発等の振興事業を目的とした基金で、政府が10億円を出資し、繊維業界には37億7,000万円の出捐金が求められている。
この件に関して昭和47年10月の役員会では「当組合でも応分の出捐金に応じたい」としているのだが、翌年3月の役員会では、出捐金の課税が議案となり「重大問題なのでその取扱いに慎重を期するよう」話し合われ、その後出捐金に関しての記載が見当たらない。
「臨時繊維産業特別対策」による昭和47年度の過剰織機買上げはさらに続き、当組合では事業廃止1工場・買上げ織機20台、規模縮小2工場・買上げ織機6台であったことが、昭和48年(1973年)3月の役員会で報告された。
対米繊維輸出自主規制等買上げ分及び臨時繊維産業特別対策による織機買上げ廃棄は昭和46年から47年の2年間で、全国62組合・58,053台に及ぶ極めて大規模なものであった。

第4節 綿織物産地として苦闘する

買上げ事業、継続される

昭和48年(1973年)以降も「中小企業団体の組織に関する法律に基づく命令の規程による織機の登録の特例等に関する法律」(織機登録特例法)に基づいて、綿スフ織機の買取り廃棄が相変わらず続けられた。
昭和48年7月、綿工連から送られてきた書面には、織機の台数が長期的には過剰となることから、織機の買取り及び廃棄を行うことが、中小織物製造業の経営の安定を図ることになるといった内容が書かれている。
そして綿工連では昭和49年(1974年)10月20日から11月30日までの期間に買取り事業を実施することを各組合に通知しており、当組合でも5工場から72台の買上げ希望が出された。
昭和48年は変動相場制に移行後、急激な円高によって輸出が困難になる一方、大量の低価格綿布が輸入されてきたため、綿織物業者の経営は苦しいものとなっていた。10月に石油産出国が原油供給約10%削減を日本に通知し、いわゆるオイルショックに見舞われて重油や電力なども値上がりした。翌49年には輸入綿織物がさらに大幅に増えたため、国内事業者の受注が激減して、倒産や休廃業を余儀なくされる企業も続出した。
昭和49年10月の役員会で中村理事長は「現在、綿布業界は未曾有の不況に遭遇しており、このままでは倒産者又は破産者が続出する恐れがある」と述べ、9月5日東京一ツ橋で行われた「全国綿布業者危機突破大会」の様子を報告している。次いで、その大会で採択された不況対策に関する請願について、速やかに全会員に連絡して署名捺印した後、地区選出の両院議員の紹介を得て、衆参両院議長に提出することを決定した。その内容とは、機動的需給調整措置確立に関する請願書、過剰設備の廃棄に関する請願書、制度融資償還猶予に関する請願書、織物及びその製品の輸入制限実施に関する請願書など8つの請願から成っていた。

買上げ代金の10%を保証金として預託

昭和50年(1975年)になっても当組合を取り巻く苦しい状況は変わらなかった。同年8月29日付けで、埼玉綿スフ織物工業組合に向けた綿工連からの通達は「織機登録特例法に基づく織機の買上げについて」であり、最近の業界の不況事態に対処するため残りの買上げを早急に実施すべきであるとの考えのもと調整委員会で検討された結果、買上げ計画を実施することになったといった内容で、相変わらず「不況対策イコール織機買上げ」の構図は変わらなかった。
昭和52年(1977年)になると綿工連は「中小企業振興事業団法(昭和42年施行)に基づく設備共同廃棄事業制度」を利用して、過剰織機の買上げ破棄事業を開始した。この買上げ廃棄事業によって廃業した事業者は、代金受領の日から16年間、新たに織物業を始めたり、織物事業の代表権を有する者となってはならないといった規程があった。また同様に、事業縮小のために織機を買上げてもらった事業者も16年間設備増設を禁止された。これらの規程を守るための「保証金」として、買上げ代金の10%を参加組合を通して、無利子で綿工連に預託することが求められた。買上げ代金支払い日から16年間経たなければ「保証金の払戻し請求はできない」と規程書に記されていた。

厳しさの中で活路を求める

さまざまな法律下での買取り事業に携わる一方、当組合では共同施設の運営や視察、展示会への参加呼びかけなど、産地振興のための取組みも行われていた。
当組合初となる海外視察が行われたのは、昭和50年(1975年)7月11日から24日にかけてのことであった。視察に先立ち同年4月には「欧州における繊維事情、流通、ファッションの視察について」という目的で組合員に参加を呼びかけている。この視察旅行は「産地振興発展のための適切な事業」として綿工連から認められ、繊維工業構造改善事業協会に対して「振興事業助成金交付」を申請し、1千万円を借り入れて敢行された。同年9月の役員会で中村理事長が視察の報告を行っている。
また「埼玉繊維製品求評展示会」に出品した組合員に宛てた書面などから、綿織物産地として最後まで踏みとどまろうとしていた様子を垣間見ることができる。
昭和50年開催の第17回埼玉繊維製品求評展示会には17工場から計50点の出品希望が出されている。昭和52年(1977年)の第19回展示会に出品したのは14工場で、そのうち金庄、中富織物、山岡シーツ、旭織物、藤井織布の5工場が入賞を果たしている。昭和53年(1978年)第20回展示会では13工場が出品し、5工場が入賞。昭和54年(1979年)第21回展示会は出品13工場中、入賞9工場と好成績を上げている。少なくとも昭和54年までは、13工場ほどの事業者が、優れた製品を作り続けていたのである。

組合活動、規模縮小へ

しかし、昭和40年代後半になると組合活動は目に見えて縮小化していった。
昭和47年(1972年)10月には共同施設のボイラー交換を行った。これは大気汚染防止法及びボイラー及び圧力容器安全規則の改正に伴い、ばいじん量排出基準が強化されて、排ガスの排出状況の監視と測定等が義務付けられたためのものである。
ただし当組合では、従来の大型ボイラーから、排ガス規制のかからない小型ボイラーへ変更しており、共同施設の事業規模が縮小していることが見て取れる。
因みに昭和47年度の共同施設利用状況は「事業決算報告書」によれば、精練工場(シーツ地、厚織、細綾他)148.923㎡、整理工場(シーツ地、厚織、太綾他)183.960㎡となっている。
昭和49年度(1974年度)の「事業決算報告書」では、事業外収入の欄に「家賃収入」が見当たらず事業外収入の額も昭和48年度に比べて150万円余り減少している。関東レザー㈱の賃貸料とほぼ同額のため、同社との契約が一旦終了したものと思われる。
昭和50年(1975年)5月の通常総会では、当組合の「組合員資格」を定めた定款第8条が変更され、「織物製造業を行う事業者であること」という条文が「織物業または染色整理業を行う事業者であること」に改められた。これは組合加入を希望していたビニクレバー㈱の意向を受け入れたもので、9月17日同社の加入が承認された。
昭和52年(1977年)から再び関東レザー㈱との間に工場2棟(100坪)月20万5千円の賃貸借契約が結ばれ、同年新たにK社に工場1棟を倉庫として賃貸する契約も締結された。さらに昭和55年3月の正副理事会において「ビニクレバー㈱との家賃の打合せについて」と議案があることから、同社にも施設を賃貸することになったようだ。
昭和56年度(1981年度)の「事業決算報告書」を見ると、共同加工賃収入が148万円であるのに対し、家賃収入は549万円とされており、主な事業内容が加工から賃貸へと、完全にシフトしている。

昭和51年(1976年)以降になると決議録など当時を知る資料もまばらになってくる。昭和55年以降は、総会で事業報告書、貸借対照表、損益計算書、次年度予算などが議案となった他は、定期的に理事や監事の選任が行われた記録が遺されているのみである。県主催による技術講習会の案内などを組合員に送っているのだが、当組合の事業として実際に対応したか否かは不明である。組合としての活動はこうして縮小化していった。