埼玉織物の歴史 第3章

第1節 供給過剰で価格下落

高品質化を図り、県共同でPR活動推進

昭和27年(1952年)4月にサンフランシスコ講和条約が発効され、GHQによる統治の時代は終わり、日本は国家としての全権を取り戻した。この頃になると朝鮮戦争による特需もすっかり影をひそめ、その揺り戻しともいうべき不景気が始まっていた。
特需下で「作れば売れる」という状態だった綿織物業界は、日本中で織機などの生産設備が増大して供給過剰となっていた。例えば川口市だけを見ても、「昭和23年(1948年)に綿織物工場が33工場、従業員数400名、生産額7,465万円であったものが、昭和30年(1955年)には82工場、従業員数2,251名、生産額も27億3,574万円へと急激に拡大している」。
このような状況は過当競争を生み出す原因となり、綿織物の価格は下落していった。その一方、戦後続いていた衣料品不足はすでに解消されていたため、国内需要の増加を期待することは難しかった。
また、昭和26年(1951年)は「綿織物の統制が撤廃(60頁参照)、アメリカ綿花の大豊作の予測が伝えられたこともあり綿糸布市況は暴落」、中小の綿織物業者は大きな打撃を受けた。政府は昭和27年3月から綿紡績の4割操短を実施した。ところが綿織物については規制を行わなかったこともあり、原糸高製品安を招いて、綿織物事業者の採算はどんどん悪化していった。
厳しい情勢を打破するために、当組合では昭和26年11月から運営を移譲された埼玉県浦和染織指導所の設備を充実させ、組合員の経営効率化と、製品の高品質化を図った。
手始めに昭和27年4月7日の役員会で、①敷布業者や小幅業者等の企業合理化の一環として「糸晒用高圧精練釜」の設置、②布染用としてジッカー2台の購入増設、さらに③別珍・コール天用の艶出機の新設の3件を決議し、速やかに実行して製品の品質向上に努めることとした。
5月2日には上記設備の設置実現を報告するため、「糸晒関係組合員」との懇談会を開催した。尾崎理事長は、その開催通知文に「待望の高級糸晒の設備を完成し、他産地を凌駕する優秀品を増産して業者共同の福利を進展し、自立経済の達成に資したい」と、設備拡充に当たっての意気込みを表す文書を添付した。
昭和27年11月の常務会では、刷子機の新規購入、乾燥機の修理と並んで、組合にコールセンターを速やかに設置することなどが話し合われた。さらに翌28年(1953年)には、深さ75m、揚水量一昼夜900Kℓの井戸を完成させ、水洗工程などに使用する用水を確保した。
これら共同施設の拡充と並んで、販路拡大を目標に、県南綿織物のPR活動を積極的に行った。昭和27年9月16日から6日間、大阪市高島屋百貨店で開催された「埼玉県物産展示即売会」に参加した。翌28年には、富山市で開かれた「富山産業大博覧会」(4/11 ~ 6/4、出品点数45点)、新潟市の「新潟県産業大博覧会」(7/1 ~ 8/31、出品点数106点)、札幌で開かれた「埼玉県物産店」(7/29 ~ 8/2、出品点数298点)、上野東京デパート「埼玉・茨城特産品即売会」(10/1~ 10/20、出品点数208点)、新宿伊勢丹「第2回関東十県展示即売会」(11/19 ~ 11/29、出品点数610点)と、立て続けに全国の展示即売会等に参加して、県南綿織物の優れた品質をPRしている。

50%の操業短縮

当組合及び組合員の懸命の努力にも関わらず、県南綿織物を取り巻く状況はなかなか改善していかなかった。その原因となったのは、国際収支の悪化を抑えるために政府が昭和28年(1953年)に実施した金融引締め策であった。この影響で景気はさらに冷え込み、操業短縮や休業する繊維関連工場が全国で増えていった。当組合の管轄内で休業に追い込まれた事業者はごくわずかであったが、織機の半数だけを稼働させたり、昼夜二部体制を一部体制にするなど、多くの事業者が50%に及ぶ大幅操業短縮を余儀なくされていた。
事業者を最も苦しめたのは、高い金利のために資金運用がうまくいかなくなったことであった。8月1日に中小企業安定法が改正公布され、9月11日に中小企業金融公庫が業務を開始した。当組合員の中には、製品を担保にして中小企業金融公庫に融資を依頼・交渉する者も現れた。
昭和28年度の状況を、当組合の「事業決算報告書」では次のように記している。
「4月の綿糸相場は最安値、6・7月はストップ安となった。製品は夏物が一時活況を呈したが、7月に入り夏枯れ気分で荷動きはなかった。10月に入ると、別珍、コール天、風呂敷は実需要に入り、活発な値動きを見せたが、他の品種は金融引締めの影響を受けて振るわず。これと前後して米綿最終収穫予想1,6437千俵の発表は、各地の風水害や食料の値上がりと相まって、先安心理やがて購買力の低下となり市況は悪化。機業家は稀有の難局に処し、多事多難な28年を送った。昭和29年(1954年)3月に入ると、金融相場の様相は深く、倒産旋風は繊維商社を激しく揺さぶった。産地は例外なくそのしわ寄せを受けるに至り、経営者の苦心は並大抵ではない。」
内需が振るわない一方、昭和29年後期頃から、綿ブラウスなどを中心にアメリカ向けの綿織物輸出が急増していった。これが好転材料になるかと思われた矢先、日本の綿製品急増にアメリカの綿織物事業者が猛反発をして輸入制限を強く求めた。
事態に反応した日本政府は、昭和31年(1956年)から1年間アメリカ輸出向け綿製品の自主規制実施に踏み切った。これで収まるかと思われたのだが、自主規制で納得できなかったアメリカ側が政府間交渉に持ち込み、昭和32年(1957年)1月「日米綿製品協定」が締結され、すべての綿製品について輸出調整をすることが決められてしまった。こうしてアメリカ向け綿織物の輸出量は減少し、景気回復への道が一つ閉ざされてしまった。
さらに同時期、ヨーロッパ諸国に対する輸出製品に関しても綿布は数量規制を受けていたため、思うような輸出ができなかった。一方、東南アジアなどの発展途上国では、この頃になると自国で綿織物を生産できる体制が整ってきたため、日本からの輸入を必要としなくなっていた。日本の綿織物は、輸出に関してまさに八方塞がりの状況であった。

第2 節 埼玉綿スフ織物調整組合設立

当組合とは別組織として、埼玉綿スフ織物調整組合を設立

需要増加が望めないにも関わらず、綿製品の供給過剰は相変わらず続き、製品価格は下落して、事業者の経営はいよいよ危機に追い込まれていった。こうした事態を招いた元凶は、朝鮮特需の際に一気に増大した過剰設備の存在と、各地の綿織物業者の生産をコントロールする組織・仕組みがないことであるとされた。
そこで政府は、昭和27年(1952年)8月1日「中小企業の安定に関する臨時処置法」を公布・施行した。全国に調整組合を設立して事業者を加盟させ、調整組合のトップ機関の指示に従わせようとするのがその主旨であった。この法に基づき同年12月「日本綿スフ織物調整組合連合会」(綿スフ調連)が誕生した。
当組合でも、昭和27年8月の役員会で「中小企業の安定に関する臨時処置法」について綿工連(69頁参照)から説明があり、当組合とは別に調整組合を結成するよう促された。しかしこの時点では「各組合員は研究すること」といった程度の対応にとどまっている。
「中小企業の安定に関する臨時処置法」は、1年後に恒久法となり「中小企業の安定に関わる法律」(中小企業安定法)と名称も改められるのだが、まだこの段階でも当組合では調整組合設立に踏み切っていない。同法では、加盟した組合員たちの生産調整や設備制限を行うことはできたのだが、非組合員の生産活動については全く枠の外であった。そのため組合設立にあまり意味を見出していなかったのかもしれない。
昭和29年(1954年)、政府は「綿スフ織物業生産設備制限規則」「未登録綿スフ織機設置制限規則」を立て続けに発令し、これによりすべての綿スフ織物業及び輸出向絹人絹織物業は、調整組合規定に従うことが義務付けられることになった。この後約40年間の長期にわたり、国内すべての綿スフ織物事業者は設備登録制の監視下に置かれることになったのである。
この法整備の流れを受けて、当組合では昭和29年3月の臨時総会で、調整組合設立が本格的に議論されることになる。臨時総会では「中小企業の安定に関する臨時措置法」の要点が説明された後、通常総会までに研究の上、設立の要否を決めることになった。そして同年5月、通常総会において調整組合設立が可決され、過剰設備の処理問題などに対応することになった。
「埼玉綿スフ織物調整組合」の設立総会が開かれたのは同年9月21日のこと。当組合理事長の尾崎太郎が理事長に就任した。
10月18日、埼玉県に「埼玉綿スフ織物調整組合」の設立を申請し、10月27日には認可された。
申請書に添付された「初年度事業計画」には、「綿スフ調連(67頁参照)に加入しその総合計画に基づき事業を行う」と明記されている。
当組合と埼玉綿スフ織物調整組合は表裏一帯の組織であり、この後も当組合理事長が埼玉綿スフ織物調整組合の理事長も兼ね、役員会なども、同時に開催し、議案を分けることなく話し合っている。また定時総会も同日に続けて行われている。このように、埼玉綿スフ織物調整組合は綿スフ調連からの指示を受ける、いわば綿スフ調連の受け皿であり、実施に当たっては、当組合と共に行動する、という関係だった。
なお、「埼玉綿スフ織物調整組合」設立時の組合員数(組合設立同意者)は94名。企業規模は以下の通りである。組合員名簿の最後に、「地区内における組合員たる資格を有する者の総数107名」という文言がある。当組合の組合員数が当時76名ということから、生産調整を行ううえでも地域内の有資格者すべてを埼玉綿スフ織物調整組合に加入させようという意図が読み取れる。翌昭和30年(1955年)5月に開催された「第1回通常総会議事録」によると、「綿スフ」の組合員数は105名となっている。
昭和29年11月、埼玉綿スフ織物調整組合は臨時総会を開き「調整規程」を承認した。この調整規程には「無断で新たに制限織機を設置した場合には50万円以下の罰金を支払うこと」など、厳しい罰則も記されていた。

昭和33年(1958年)、「日本綿スフ織物調整組合連合会」は「中小企業団体の組織に関する法律」の公布・施行に伴い、「日本綿スフ織物工業組合連合会」(綿スフ工連)に名称を変更した。なお、先に述べた「日本綿スフ織物工業連合会」(43頁参照)と上記「日本綿スフ織物工業組合連合会」は右の組織図のように「綿工連の組織」に属するため、本書では以降の表記を「綿工連」で統一する。

神武景気の中、過剰織機を処理

埼玉綿スフ織物調整組合が設立されると、綿工連からの生産制限指示が埼玉綿スフ織物調整組合を通じて、早速、当組合の組合員に申し渡されることになる。当組合の組合員はほとんどが埼玉綿スフ織物調整組合に加入していった。
昭和29年(1954年)12月から昭和32年(1957年)6月頃までは「神武景気」と呼ばれた好景気であり、冷蔵庫、テレビ、洗濯機が三種の神器として人々の暮らしの中に受け入れられていった時代である。消費が活性化している社会情勢の中で、組合員の生産を制限してそれを監視することは、当組合にとっても決して楽しい事業ではなかったはずである。
昭和30年(1955年)1月の埼玉綿スフ織物調整組合臨時総会で、尾崎理事長は次のように心境を語っている。
「業界の現状からみて何らかの踏み切りをつけなければならない。多種多様な業態、規模のため困難と思われるが、さし当り可能な範囲で実行したい」
同年2月の役員会では、理事長より「操業短縮を厳守させるべく、川口地区4名、浦和地区3名、蕨地区3名の組合員に監察員を委嘱した」という報告があった。
生産制限の規模は毎月異なっていたが、例えば同年4月の操業短縮日は、日曜日4日、月曜日2日、祝日1日の計7日間と決められている。
なお埼玉綿スフ織物調整組合では、昭和30年代に毎年何度も(多い年は年6回も)臨時総会を開催しているのだが、議案のほとんどは「調整規程の一部変更」についてである。文言の修正、規程の廃止や追加、但し書きの追加など、細かな変更があるたびに臨時総会が開かれたのである。
ところで、生産制限をいくら行っても、当時の綿織物業界が抱えていた根本的問題は何も変わっていなかった。需要に対して織機などの設備があまりにも多すぎるという過剰設備問題である。この問題に対して、政府は昭和31年(1956年)6月「繊維工業設備臨時処置法」を制定・公布し、登録している織機のうち一定数の過剰台数を廃棄または格納などによって処理することとした。同法によって誕生した「繊維工業設備審議会」が過剰設備台数を算出したところ、その台数が全国で115,882台に上ることが分かった。同審議会は算出した台数の半数を、昭和31年度からの4年間で処理することを決めている。
使えなくなった織機を廃棄処分するわけではない。現役として使われている織機を処分するのである。この法令の施行は、綿織物事業者たちに衝撃的な内容として伝えられたに違いない。各調整組合の処理台数は、綿工連が割当を行った。もちろん処理は強制的に行われたわけではなく、「買上げ」という形で希望事業者を募って行われた。
昭和31年8月の「過剰設備処理の大綱」によれば、買上げ価格は、1台当たり、鉄製大型織機55,000円、同小型織機15,000円、半木製大型織機26,900円、同小型織機8,700円、大型足踏織機10,400円、小型足踏織機3,300円と定められている。当組合では、昭和31年3月の役員会で過剰織機の処理について説明を行っている。
「神武景気」は日本の高度経済成長期の幕開けであったが、昭和32年後半になると、アメリカを始めとする世界経済の低迷を受けて減速し、「鍋底不況」と言われる経済情勢に突入していった。政府が再び金融引締め策を取ったため、日本の産業界全体が減収減益となってしまったのである。そのような時代背景の中で、過剰織機の処分は進められていった。

埼玉綿スフ織物工業組合に名称変更

昭和32年(1957年)11月「中小企業安定法」が廃止され、新たに「中小企業団体の組織に関する法律」が施行された。この法律は中小企業の合理化と安定を図ることを目的にしたもので、生産分野に限られていた調整組合をあらゆる事業分野に拡大させたものであった。新法の施行に伴い「埼玉綿スフ織物調整組合」は定款を変更し、「埼玉綿スフ織物工業組合」と名称を改めることが昭和33年(1958年)5月29日の総会で決められた。
国内消費の上昇などによって「鍋底不況」を脱して再び明るさを取り戻し、「岩戸景気」と呼ばれる戦後最長の好景気時代を迎える直前、埼玉綿スフ織物工業組合は誕生した。昭和35年(1960年)、池田内閣が「所得倍増計画」を発表すると、日本中が右肩上がりの上昇機運に包まれた。ホワイトカラー層が急増し、自動車産業や精密機械産業が台頭し始めるなど、国内の産業構造全体も変わり始めていた。
埼玉県内の産業構造も変わり始めていた。昭和33年まで業種別製造品出荷額で県内1位または2位であった繊維産業は、昭和34年(1959年)には重化学工業にその座を譲ることになり3位に低下した。その後再び1位に返り咲くことはなかった。
日本経済の隆盛を横目で見ながら、綿織物業界では、生産制限と過剰織機の処理が続けられていた。昭和34年2月の当組合役員会では、綿工連から送付された「過剰織機処理要綱及び処理日程」について話し合われ、処理目標台数を達成するため努力することとしている。そして同年4月、広幅織機と小幅織機合わせて229台(浦和157台、川口35台、蕨37台)を買い上げているのだが、その後買上げ台数を追加する通知が綿工連から出されている。また同年6月には登録織機と制限外織機の区別を明確にして監察を容易にする目的で、制限外織機を白ペンキで塗装するよう綿工連から指導されている。
さらに生産制限がきちんと実行されているかどうか、監査体制を強化することも求められ、「隣組」制度が設けられることになったのも昭和34年からのことである。「隣組」は地域別に30~50工場を基準として組織され、隣組長・副組長は、組合の計画に基づき、隣組員の全事業所を監査するとされた。当組合では、浦和、蕨、川口の3地区に隣組を組織し、昭和34年度は5回に及ぶ監査業務を行った。
時代が大きく変わり始めた昭和34年、日本の歴史に名を残す大型台風が、織物産業の先端地の一つであった東海地方を襲った。この台風15号は後に「伊勢湾台風」と呼ばれることになる。東海地方の織物工場が軒並み被害を受けた影響で、綿製品は一時的に品不足を招き、綿織布は3年ぶりの高値をつけることになった。
伊勢湾台風の被害について、綿工連の調査が決議録の中に残されているのだが、それによると「当業界関係の被害状況は、1,869工場、(織機)68,484台に及び、全壊、浸水・半壊工場の普及には40億円かかる見込み」とされており、被害の大きさを窺い知ることができる。当組合でも被災事業者のために組合員から寄付金を募り、綿工連へ送っている。

第3節 当組合事務所・工場、浦和市沼影へ移転

繊維工業試験場建設予定地へ移転の予定だったが…

高度経済成長期の頃、当組合で話し合われていたのは、生産制限や過剰織機の問題だけではなかった。組合員のために、県の研究施設を設置することがたびたび話し合われている。
具体的には、埼玉県浦和染織指導所を復活させてほしい旨を県当局に陳情し、県議会にも請願書を提出しているのだが、そうした陳情活動が何度も行われた。昭和34年度(1959年度)の役員会では「(県立)染織試験場を本組合の地区内に新設するか、元埼玉県浦和染織指導所の復活を実現させるために最善を尽くす」と決意が述べられている。
組合員の技術向上と製品の品質向上には、専門の研究機関が必要であるということが理事たちの一致した考えであったのだろう。この強い思いは、思わぬ形で実現の方向へ動き始めるかに見えた。浦和第二電話局新設の候補地として、日本電信電話公社(電電公社)から県当局に対して、本組合の敷地を提供してほしいとの申入れがあったことが尾崎理事長から説明されたのは、昭和34年8月の役員会でのことであった。
この申入れを受けて、役員会や臨時総会で話合いが行われた。そして県及び電電公社と交渉を続けた結果、県立繊維工業試験場(分場)設立の見通しを得たとして、移転の話を進めることが決められたのである。
当初の計画では、まず埼玉県が電電公社にこの土地を売り渡し、その代金で新たに約2,000坪の敷地を求め、半分に県立繊維工業試験場を設け、残り半分を当組合に貸与する方針であった。
さらに元埼玉県浦和染織指導所に属する建物及び機械器具等は、当組合に対し無償で払い下げることや、建物及び機械器具等の移転に要する費用は電電公社が負担することなどが決められ、臨時総会で承認された。
組合の共同施設等は新設するのではなく、現在使っている施設を解体して新たな土地に移築することに決まった。決議録に添付されている「建物等移築承諾書」によれば、当組合のあった浦和市常盤町9丁目135及び136番地の土地は838.5坪(埼玉県及び小谷野傳蔵所有地)であり、事務所及び工場(174.2坪)、染色工場(48坪)、精練工場(102.25坪)、油庫(1.5坪)、食堂(17.5坪)、試験室(16坪)、物置(6坪)などが建てられていたことが分かる。

新整理工場完成、落成式開催

昭和34年(1959年)から35年(1960年)にかけて、移転後の設備を先端のものとするために、綿スフ織物の先端地であった浜松地方や、絹織物が盛んな両毛地域などを視察して、設備についての検討を重ねた。
昭和35年1月18日、県有物件払下げ、電電公社に対し建物機械等の移築に関する契約(営業補償を含む)を締結し、当組合が所有していた建物及び機械器具等について、同年3月31日までに撤去を完了した。新たな土地への移築が終了するまで共同施設の運用はできなくなったが、浦和市沼影に仮事務所を構え、当組合の事務業務は続けられた。
昭和36年(1961年)7月、他の施設に先駆けて整理工場が運転を開始した。そして同年11月27日、埼玉県知事代理として商工部経営課長本木下展広氏らを招き、午後1時から落成式が行われ、浦和市大字沼影394の3への移転が完了したのである。
新たな沼影の土地は、移転前に比べて100坪ほど狭い745坪であり、県の繊維工業試験場を建てる余地はなかった。繊維工業試験場分場の建設に関しては、県南織物産業を支援するものとして「文化都市浦和にふさわしい研究機関にしよう」と試験場長や県商工部なども応援していたのだが、昭和36年2月の記載を最後になぜか立ち消えになってしまっている。
なお10年余にわたって理事長を務めてきた尾崎太郎は、11月の落成式を見届けて速やかに退任したい意向を示していたが、翌年初めまで職務を遂行し、昭和37年(1962年)2月1日、野崎新一郎が第3代理事長に就任した。

第4 節 労働環境の整備

最低賃金法制定

高度経済成長期は、日本の経済規模が拡大しただけではなく、近代的な労働環境が整えられていった時期でもあった。労働者の生活安定を目指して、昭和34年(1959年)4月に公布・施行された「最低賃金法」もその一つである。
法の施行に伴い、当組合内でも業者間で協定を結んで最低賃金を定め、それを埼玉県労働基準局に申請することが求められた。昭和34年9月の臨時総会では、「官報に掲載されていた遠州織物工業協同組合」と同一の協定要旨とすることが話し合われ、「綿織物業に従事する女子の初任給(日額)は180円で、1年経過するごとに20円(日額)昇給する。食費は1か月1,500円徴収する」ことになった。その後もたびたび最低賃金に関して役員会で話し合われたが、なかなか業者間での取り決めはまとまらなかった。
組合内の最低賃金が決まらない背景には、この頃からすでに求人難が始まっていたという社会情勢も影響していたかもしれない。昭和35年(1960年)6月11日に発行された綿工連の機関誌『綿ス・フ織物情報』(第469号)では、「新中卒の求人はすぐ最寄りの職安へ」がトップ記事となっている。来春就職を希望している中卒女子の数が、今年に比べて2割減り200万人程度と推定されているため、早めに職安に赴いて求人希望を出すよう組合員に呼びかけている。
最低賃金を高めに設定して求人を有利にしたい事業者と、なるべく低く抑えて経営を安定させたい事業者、さまざまな事情があったに違いない。当組合では、業者間の協定を進めるために、昭和35年7月組合員の詳しい実態調査を行っている。それによると組合員の主要製品は、広幅生地(金幅、天竺、太綾)、広幅先染(敷布、レインコート地、カバン生地、風呂敷)、先染小巾(着尺織物)であり、約65%の事業場が浦和市、蕨市及び川口市の3市に集中していることも分かった。
右表のように、96の事業者が2,133名の労働者を抱え、1日の賃金は180円~450円とかなり幅があることも判明したのだが、そのうちもっとも多い賃金帯は200~220円(373名)となっている。こうした調査の結果を踏まえて、「当組合の雇用する労働者の最低賃金を1日220円とする」と定めた決定申請書を、昭和35年9月ようやく提出することができた。

労働環境改善目標提示

当組合の移転が進められていた時期も、生産制限と過剰織機処理は相変わらず続けられていた。昭和35年(1960年)9月の埼玉綿スフ織物工業組合臨時総会では、現在、国内の登録織機は366,998台であるが、なお73,954台(20.2%)の過剰があるため、織機の登録、新増設制限等は今後も引き続き実施する必要があることが説明されている。
登録された綿スフ織機を、他の登録に変更するのにも制限があった。例えば昭和36年(1961年)10月~11月、綿スフ織機からタオル織機の転換について希望を募ったところ、159台の希望が出されている。ところがこれに対して綿工連から当組合へ割り当てられた台数はわずか13台であった(綿スフ工連傘下全体で2,000台を超える織機が転換を希望した)。
いつまでも続くかのように思われていた「岩戸景気」は、昭和37年(1962年)になると陰りを見せ始め、この年は1年を通して市況の悪化が改善されず、生産制限や登録の網をかいくぐっていた「無籍織機」の取締りも強化されていった。
昭和37年、当組合の最低賃金を改正することが県労働基準局より求められたため、再び当組合内の従業員1,964名を調査したところ、1日当たりの給料300~350円が最も多いことが分かった。これを受けて同年9月15日「区域内の事業場で雇用される者に対して、1日について最低賃金300円」として決定申請書を県労働局に提出している。
昭和38年(1963年)になると、1年後に迫った東京オリンピック開催を視野に、首都高速道路や東海道新幹線など、近代的なインフラ整備が急ピッチで進められていった。それと同時に労働環境にも近代化が求められるようになる。昭和38年「中小企業基本法」が制定されると同時に「中小企業近代化促進法」が制定され、同年9月には綿スフ織物業が「指定業者」となり、経営近代化を求められる一方、税制や金融で優遇されることになった。
このような法整備の流れを受けて、当組合でも「労働管理近代化の推進について」の話合いが同年6月に行われ、全組合員に対して実態調査を実施することが決められた。「労働管理を近代化して、優秀な従業員の獲得を目指すこと」が実態調査の目的と記されている。その後行われた調査によると、地区内のほとんどの工場で「労働時間は1日8時間」であったものの、休日は日曜日のみで、祝祭日を休みにしている工場は1か所もないことが分かった。年間の休みは年末年始の4~5日と、盆休みの2日だけであることも判明した。
こうした実態に対して、1日8時間・週48時間労働を原則とし、有給休暇制度を確立することや、就業中に休憩時間(午前10時から10分間、正午より40分間、午後3時より10分間)を設けることなど、改善目標を「近代化対策指導要領」として取りまとめ、組合員に提示している。

第5節 綿製品対米輸出規制

対米輸出規制と賃上げで転廃業相次ぐ

昭和36年(1961年)当時、日本の綿産業復興に脅威を感じていた欧州では、同年7月「綿製品の国際貿易に関する取り決め」(STA)をスイス・ジュネーブで開催された国際会議で決定した。各国にSTA参加を呼びかけ、日本も同年10月に受諾することになった。STA加盟国は、綿製品の国際貿易に際して長期取り決め(LTA)に従うことが義務付けられた。
ところが昭和37年(1962年)12月、アメリカは突然、日本の対米綿製品輸出はLTAの規定に違反しておりアメリカ市場を攪乱していると主張、輸入制限を行うことを通知してきた。日本政府は反論したものの認められず、交渉の結果、昭和38年(1963年)1月から「対米輸出規制」を強化することになった。
このことが日本の綿織物業に与えた影響は計り知れないものがあった。当時は市況改善の目途が立たず、年間を通じて生産制限が実施されていたが、さらに韓国や台湾、香港などから廉価な綿布が大量に輸入されたことが響いて国内需要は低迷していた。そこに降ってわいた対米輸出規制の強化であった。
また当時は、労働運動が激化していた社会情勢下にあり、繊維業界は一斉賃上げを実施しなければならず、企業収益を圧迫していた。
こうした状況を打破するため、当組合では昭和39年(1964年)5月、青梅織物工業協同組合、所沢織物商工協同組合と連名で、得意先に対して10%の綿布製品値上げについて嘆願書を送っている。書面の中で「値上げの理由」として掲げているのは、労働攻勢による「一律賃上げ」「初任給の上昇」を求められていることであり、労働力不足の折からこれに応じざるを得ないと得意先に理解を求めている。さらに原糸が昨年同様高騰していること、染色晒工賃が値上げの一途であること、公定歩合の上昇と金融引締めの影響で金融面での圧迫を受けていることなど、綿織物業を取り巻く厳しい状況が切々と述べられている。
昭和39年と言えば、東京オリンピックが開催され、日本中がテレビの前で熱狂していた時代である。
当地区綿織物業の苦境はまだまだ続き、昭和40年(1965年)になると県労働基準局から最低賃金検討の話が再び持ち上がる。賃金実態調査を実施して当局側がその内容を検討した結果、1日の最低賃金は440円が妥当として引き上げるよう説明され、同年2月20日までに組合員合意書を作成して提出することを求められ、3月12日「最低賃金決定申請書」を労働基準局に提出している。
昭和40年1月の役員会では「不況深刻のため、互いにいましめて、慎重に事業を経営し、倒産等の被害を受けないよう最善を尽くすことを申し合わせた」と記されているが、転廃業する組合員も少なくなかったようだ。蕨の織物業者の組織である「蕨織物工業会」は社史の中で昭和40年当時の状況について「この頃になってくると、織物業界が不況になり、組合員の中では転廃業が相次いだ。これによって組合費の納入が減少し、事務員の給料及び建物の維持並びに公租公課の支払いにも支障を来たしてきたので、これの改善の必要に迫られてきた。その頃若手の社員の間から、貸倉庫を造り、その賃貸料で会社の財産を活性化すべく動議が出され…」と綴っている。

無籍織機も取締り強化

昭和38年(1963年)1月から始まった「対米輸出規制」の強化は、その後昭和41年(1966年)1月に「日米綿製品暫定協定」として締結された。綿織物製品の重要な取引先であったアメリカとの貿易にブレーキがかかる一方、政府が取った政策は、過剰設備の処分を急ぐという道であった。アメリカとの貿易摩擦は、安くて品質の良い製品を「作り過ぎる」国内業者に問題があり、その根本原因が過剰設備の存在であるという論法だったのかもしれない。
「繊維工業設備臨時措置法」(繊維旧法)のもとで、昭和31年(1956年)から39年(1964年)まで登録制や過剰設備の処理が行われていたが、この法は昭和39年「繊維工業設備等臨時措置法」(繊維新法)へと受け継がれていく。因みに繊維旧法の下で処理された綿スフ織機の数は、全国で48,927台に達していた。
過剰織機対策は登録織機に対してだけではなく、登録を申告していない織機(無登録織機あるいは無籍織機)の摘発強化という形でも進められた。
昭和39年4月、スフ織物調整規程の改訂に伴い、全国の無登録の織機30,000台に対して仮登録が認められた。ただし、それには、①28,500台の仮登録:昭和39年4月1日現在で45吋以上61吋未満の織機を持っている人は10台に3台、②1,500台の仮登録:45吋未満の織機だけを持っている人のみ申請できる(ただし、埼玉綿スフ織物工業組合の割当は10台)、等々条件が付けられていた。
さらに政府はこれを円滑に進めるため、同年5月に「綿スフ織機監視委員会」を開催、6月中旬までに仮登録を済ませるよう各組合に促した。当組合でも6月9日の役員会で無籍織機の解消に努力することが決められている。
ところが綿工連総会での報告によると、全国の組合が調査をしたところ無登録織機の台数が36,000台に及び「仮登録台数で有籍化することができない」ため、20%は各自の責任で廃棄することを求められている。また、仮登録した織機は登録申請後、譲渡するか自己増設とするか等を、組合が「企業者別無登録織機解消計画」を作成して遂行することが求められた。
その結果、当組合では昭和40年(1965年)1月時点では「無籍織機の処理は逐次進められているが、浦和地区を除く各地区はそのままであるので、遅くとも年度末までに達成されたい」と尾崎理事長が述べているが、予定よりも早く同年8月「無籍織機絶無に達した」と役員会で報告されている。
なお、この解消計画に伴い、当組合から他組合へ供出(譲渡)した織機は、換算台数で150.6台(3,012,000円)であった。