埼玉織物の歴史 第2章

第1節 戦後の混乱から立ち上がる

輸出振興委員会設置

設立後間もない当組合の活動は、輸出製品の振興からスタートした。第1回臨時組合員総会から約2か月後の昭和22年(1947年)6月5日に役員会が開催された。決議録によると、第1号議案は「綿織物輸出振興に関する件」であった。5月28日に大阪で開催された綿工連の臨時総会に、中村彌太郎理事長の代理として当組合から飯塚留次郎常務が出席した。役員会で飯塚常務はその報告をしているが、それによると「輸出用綿布に粗悪品が多く品質が劣化しているとGHQから指摘されたため、各協同組合は輸出振興委員会を至急立ち上げて、品質向上に努めるよう求められた」とのことだった。
これに対して当組合では、中村理事長を委員長とした「輸出振興委員会」を立ち上げることを役員会のその場で決定している。もちろんGHQの指摘は、全国の事業者に対してのクレームであり、当組合に加入していた事業者の製品品質を物語っているものではない。むしろこの時期GHQが輸出用綿布の品質を気にしていた背景には、民間貿易の再開を予定していたことが考えられる。
第二次世界大戦後の国際秩序は、アメリカを代表とする民主主義国家と、ソ連や中国を筆頭とする共産主義国家とが激しく対立する構図となっていた。アメリカとしては、直接統治していた日本を早く経済的に自立させて、アジアにおける民主主義国家に育て上げる必要に迫られていたのである。そのためには主力となる綿織物の品質を安定させて、貿易を振興する必要があった。事実、綿工連の臨時総会から3か月も経たない昭和22年8月15日、制限付きではあるが「民間貿易の再開」をGHQは許可している。
これによって、それまでアメリカ一国にほぼ限定されていた貿易は、東南アジア向け綿布輸出など、複数の道が開かれることになった。インドからの綿花輸入が再開されたのもこの年のことである。

協同組合活動の拡充と組合員増加

昭和22年(1947年)当時は、綿糸も綿布もその生産量や価格などがGHQによる厳しい統制を受けていた。綿糸は、輸出用の綿布を織る分と、国内向けの綿布を織る「内需用」に分けられて各協同組合に割り当てられた。昭和22年の輸出用綿布の割合は約60%であったものが、民間貿易に対する制限が解除される中でその割合が高まり、昭和24年(1949年)には輸出用綿布は80%近くにまで達している。
組合員の輸出用綿布生産を後押しするため、当組合でもいくつかの取組みを行っている。昭和22年9月の役員会にて、組合事務所内に「貿易陳列所」を設置することを承認した。これは組合員が織り上げた織布を、来組者にPRするためのものと思われる。さらに輸出織物に「今後ますます染色織物が増加していくことが予想される」として、加工課の共同施設に「染色工場」を増設することが同年11月の役員会で話し合われている。また昭和23年(1948年)1月の役員会では梱包機共同設備設置も議題となり、公的補助金を申請し、不足分は金融機関からの借入金で補うことが可決された。
一方、繊維産業全体が輸出産業として急速に息を吹き返していく中で、当組合の組合員数も増加していった。役員会開催の度に新規加入申込があり、昭和23年(1948年)4月に開催された第1回定時総会では総組合員数117名、12月の第2回総会では、同176名と記録されている。
休業あるいは廃業していた事業者たちが好景気を背景に復帰し始めたことも、組合員数増加の一因であった。このことは県南の綿織物業が勢いを増していった証拠であり喜ぶべきことではあったが、若干のトラブルも報告されている。
当時、綿工連から割り当られた綿糸は、すでに稼働していた織機に優先的に割り当てられていたが、これに対して織機を復元して再び生産を始めようとしていた事業者から不満の声が挙がった。そこで当組合の役員会で検討を重ねた結果、復元織機にも原糸を割り当てることになり、ことの顛末が昭和23年3月の役員会の決議録に「完全転廃業者復元に関する経過報告」として記されている。
昭和22年度の事業報告書によると、綿花の輸入量が増えると共に、全国的に輸出用綿織物は生産を伸ばし、各協同組合の割当量も増えていった。また内需用織物も「一般民生用指定生産」として相当量の割当があり全面的に操業できるようになり、事業が軌道に乗るようになった。その結果、綿織物は「食料品の見返り物資」としての役割も担った。極端なインフレが進行、併せて電力不足という悪条件にも関わらず、「貿易再開を契機として、異常な活気を帯び、前途の希望ようやく明るさを見るに至りたり」と、事業報告書の行間からは暗いトンネルを抜け出したという解放感が読み取れる。
役員会で協議を重ねていた染色工場増設や梱包機設置等についても、「共同加工場の設置をなし、輸出産地としての基礎を築くに努力をし、漸く軌道に乗り新発足を見たり」と、共同加工場の設備が着々と整えられていく様子が分かる。
昭和23年度の事業報告書にも、「インフレの激化に未だ四囲の悪条件にも関わらず、前途の希望漸く明るさを見、活況裡に本年度に入った繊維業界は輸出繊維もいよいよ第2段階に入り、一段と躍進を示している。負託された使命の重要性に、一層全力を傾け、経済再建のために事業経営を図った」とますます意気盛んである。
もっとも綿織物の生産においては「原糸生産量の不足で割当原糸の入荷が滞ったり、資金資材動力等の割当減少及び労働法規による制限等々で運営上非常な困難を来したが、生産促進運動の強化により、8月には回復の観を呈した」という。
輸出振興の増進で輸出織物が増加すると共に当組合では優先的に配給が受けられるようになり、電力(輸出電力特配)やガソリン、マシン油等々、生産に関わる物資はもとより、労務者用煙草や菓子類も割当てを受け、それらは組合員に配布したとのことである。
昭和20年代から30年代にかけてまとめられた当組合の「事業報告書」には、組合を取り巻く経済状態が詳しく記されているのだが、22年度と23年度の事業報告書ほど、将来展望の明るさを高らかに歌い上げたものは少ない。それほど組合の前途は開けていたのである。当組合の歳入予算額も昭和22年度の279,700円から、昭和23年度は1,347,300円と5倍近く増えている。
因みに、昭和22年(1947年)~昭和26年(1951年)の国内綿織物の生産・輸出・輸入額は下の表のとおりである。

デフレ推進策、ドッジラインの実施

昭和24年(1949年)は日本経済に激震が走った年である。
戦争の傷跡が少しずつ癒え物資が豊かになる一方、インフレが進んで物価は高騰していた。このような経済情勢は不健全であるとして、昭和23年(1948年)12月にGHQは予算の均衡を急速に図ることや、資金貸出を経済復興に寄与するものだけに厳しく限定することなどを示した「経済安定化9原則」を提示した。
そしてこれを実行に移すため、経済顧問として昭和24年2月に来日したのがジョゼフ・ドッジ(デトロイト銀行頭取)である。ドッジは強烈な財政金融引締め策(ドッジライン)を実施した。4月には為替レートを1ドル360円の単一為替レートにした。ドッジラインの実施によりインフレは終息したのだが、好調を続けてきた産業活動は一気に冷え込んだ。消費が低迷してあらゆるものが値下がりし、失業者が増え倒産する企業が相次いだ。
『埼玉県史』には、県内の中小織物業者は金融引締めに加えて、昭和23年(1948年)下期から商社の輸出契約が認められたことなどから原糸の買付けが困難になり、「商社などの賃織をする傾向も強まった」と記されている。それでも昭和24年の埼玉県の織物工業の生産額は、3,559,697,000円で全国2位、輸出が内需の2倍だったという。またこの年の紡織工業生産額6,684,027,000円と併せると、県内の主な業種の中で織物・紡織工業で30.7%を占めている。
昭和24年度の「事業報告書」によると、当組合でも組合員に割り当てる予定の原糸が八方手を尽くしても入手できなくなった。そのため受注も思うようにできず、工賃も極端に値下がりして組合員の経営を圧迫した。
国内需要も低下したため操業状態が極度に低下して、統制が解除されるにつれて製品の値下がりを招き、甚大な損失をこうむる事業者も出てきた。それまで1年単位で行っていた組合予算編成が、「先行きが見えない」との理由から上期・下期に分けて組み立てられるようになったのも、昭和24年からである(上期・下期の予算編成は、昭和26年度まで継続され、その後1年編成に戻された)。

絹人絹織物業者の離脱

ちょうどこの頃、当組合内でも大きな亀裂が生じていた。昭和24年(1949年)2月、本庄、深谷、加須などの絹人絹織物業者が「埼玉絹人絹織物工業協同組合」を設立するため、組合離脱を突然申し出たのである。
その結果5名の理事が辞職し、当組合を去ることになった。「役員辞任理由書」には、「綿スフ」と「絹人絹」の両部門を併せた組合組織では運営上支障を来す、特に絹人絹織物業者は経済上行き詰まりを生じており、「埼玉絹人絹織物工業協同組合」を設立することで活発な組合運営を行わなければならない、我々は死活問題に直面している、と強固な決意が述べられている。
「埼玉絹人絹織物工業協同組合」のその後について、詳細は不明である。

埼玉織物振興協同組合、埼玉織物工業会設立

これまで協同組合の設立根拠となっていた「商工協同組合法」は、資材割当を設立目的とするなど統制組合的要素が強かったため、昭和24年(1949年)6月「中小企業等協同組合法」が公布され、改められることになった。新法ではこれまでの統制組合的性格は払拭され、中小企業組合員たちの相互扶助を進めることが協同組合の役目であると記されている。
法律が変わった関係で当組合にも改組が求められた。同年7月に行われた役員会では、現在の協同組合を解散することが話し合われた。しかしその後、政府の意向が今一つはっきりしないことや、他に改組した協同組合が見当たらないことなどを理由に、この話はいったん棚上げとなった。
再び改組の話が動き出すのは、昭和25年(1950年)1月のことであった。
「暫定的に」加工部を中心として原糸の購入、製品の販売・斡旋、組合員の自治検査をする協同組合に改組するとして、名称を「埼玉織物振興協同組合」とすること、また新たに各地組合及び単独業者からなる任意組合「埼玉織物工業会」を設立することを役員会で決め、2月の臨時総会で承認された(2月17日登記完了)。
ただしこの改組には紆余曲折があったようである。総会の議案はこれまで「満場一致で了承」とおだやかに決議されるのが常であったのだが、改組議案については緊急動議が出されている。それは2つの組合に分ける「必要ナシ」という動議であった。これに対して中村理事長は、「改組は国庫補助を継続させるためのものなのでご理解いただきたい」との答弁を行っている。
また改組された「埼玉織物振興協同組合」の定款が決議録に付されているが、昭和25年2月の臨時総会で提案された定款(案)には「振興」の二文字が二重線で消されて「工業」と上書きされ、その後の定款には「埼玉織物工業協同組合」と書かれた紙が当該箇所に貼ってある。つまり今までの名称にいつの間にか戻っている。
この経緯についてはどこにも述べられていないので詳細は分からないが、前記の動議に対して「国庫補助金が解決できれば意趣の通りになると思う」と理事長の発言が記されていることから、便宜上組合を2つに分け、その後元に戻したものと思われる。
こうして昭和25年度は「埼玉織物工業協同組合」「埼玉織物工業会」2つの組合が共存した。なお、「埼玉織物工業会」は昭和26年(1951年)5月31日、「その重要使命を果たした」として解散し、以後は従来通り、「埼玉織物工業協同組合」単一組合として運営されることになる。

未登録織機の届け出要請

昭和24年(1949年)7月に「臨時繊維機械設備制限規則」が施行された。それに伴い、同年7月に開催された役員会では、7月末までに未登録織機を届け出ることを全組合員に要請した。
その結果、織機の登録台数全体が明らかになった。以下、当時の登録台数表を示す。

第2節 朝鮮特需、戦後最大の好景気到来

ガチャ万コラ千

ドッジラインによる景気低迷に苦しんでいた日本経済に、大きな転機が訪れた。昭和25年(1950年)6月25日のことであった。突如として北朝鮮が38度線を越えて韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争(朝鮮動乱)が勃発したのである。南北統一をもくろんだ北朝鮮の侵攻に対し、アメリカ政府はGHQ最高司令官として日本の占領統治に当たっていたマッカーサーに全指揮権を与えて対抗した。やがて韓国支援のために国連軍も編成され参戦した。
アメリカ軍及び国連軍に対する最前線補給基地となったのが、日本であった。そのため戦争遂行に必要な物資を中心に需要が急増し、「朝鮮特需」と呼ばれる経済状況が生まれることになった。その規模は昭和24年(1949年)の日本全体の輸出額が5.1億ドルだったのに対し、昭和26年(1951年)は13.6億ドルと、一気に約2.7倍に膨れ上がるほどの需要急増であった。
特需の対象となったのは、有刺鉄線、ドラム缶、麻袋、医薬品など直接戦地で使用されるものだけではなかった。建築鋼材やセメント、石炭、木材、さらに兵士たちが使用する日用品や雑貨にまで特需の影響が及んだ。
繊維製品に関係するものとしては、軍服などの他、戦地で使用するシーツ、テントなどがあったようだ。このように金属製品と繊維製品を中心に需要が急増したため、朝鮮特需は「金へん景気」「糸へん景気」とも呼ばれている。
「糸へん景気」は、「ガチャマン景気」とも呼ばれた。ガチャンと経糸に杼(ひ)を通しさえすれば、万というお金を手にすることができたという比喩であり、織機の音がその名の由来である。
実際どのようなすさまじい景気であったのか、組合員の一人は当時のことを振り返り「押入れの行李の中にお札がいっぱい入っていて、入りきれない札束が直接押入れに2~3段積まれていた。どうしてこんなにたくさんお金があるのだろうと、子供心に思った」と語っている。
本書第2部に掲載した組合員アンケートの回答の中でも、ガチャマン景気に関連した内容が記されている。

・「ガチャ万」と言われたのは、昭和21年頃から昭和26年頃までで、いわゆる糸へん景気の時代でした。当時は「買継屋」さんが昼間から来て、工場が終わるまで待っていました。その間、兄などと将棋をして待っていたのが、叔父は忘れられない光景だと話していました。(浦和地区 ㈱トコー 戸張聡子)

・終戦直後は物資不足のために、何でも作れば売れる時代になり、最初は三白景気と云って紙パルプ・繊維・砂糖などの白物が復興景気の先導役になり、さらに朝鮮戦争による特需と重なって、今では信じられないような馬鹿景気が起きました。
当時織物業界には「ガチャ万コラ千」という言葉が生まれました。これは闇相場でガチャっと織ると「1万円」儲かり、経済警察の取り締まりに遭うと「千円」の罰金が科せられても差引9,000円になることから言われた言葉です。(蕨地区 金子㈱ 金子積行)

・戦後20年代より父の時代に自動織機20~30台あったと聞きます。さらに、第2工場建設後は織機の台数も増設し50~60台で稼働していたようです。(蕨地区 小山織物㈱ 小山利)

・昭和25年頃から(織機を)ガチャンと織れば万の金が儲かる。「繊維」、「紡績」といった糸へんの付く漢字の業種が儲かったなどの話を聞く機会はありましたが、嫁いだ頃がそれに値するかまでは分かりませんが豊かな生活を過ごした時期ではありました。(蕨地区 小山静子)

戦後続けられていた統制は昭和24年頃から徐々に廃止され、繊維関連では昭和24年末までにガラ紡、特紡、繊維屑等の統制が撤廃された。昭和25年2月には、スフ糸、スフ織物の割当制が廃止となり、価格統制も同年5月に廃止となっている。最後まで残されていた綿糸・綿織物の割当制は、昭和26年7月に廃止となった。
つまり「ガチャマン景気」の最中、綿糸・綿織物は、生産量等が政府によって決められていたのである。しかし「織れば高額で売れる」ため、統制の目をかいくぐって増産し、闇ルートで出荷した業者も多かったようである。ガチャンと織って何万円「ガチャ万」、取締りで当局にばれたら袖の下で何千円か支払って見逃してもらう「コラ千」であった。

埼玉県浦和染織指導所の運営を移譲される

朝鮮戦争の開戦から間もない昭和25年(1950年)7月、当組合で役員会が開かれている。しかしそこには緊迫した記述はなく、綿統制が解除されるかもしれないということが話し合われているのみであった。
昭和26年(1951年)から昭和27年(1952年)にかけても「ガチャマン景気」を直接想起させる言葉は、決議録の中からは見えてこない。それでは当時、当組合で中心的な議案となっていたのは何かというと、「埼玉県浦和染織指導所」の運営が当組合に移譲されるかもしれないという案件であった。
この議案が最初に取り上げられたのは、昭和25年7月の役員会である。「埼玉県浦和染織指導所の件」として、指導所の運営について、県の方針を指導所の所長自らが当組合理事たちに説明している。その上で「決定されたものではないので一般への公言は控えてほしい」と述べていることから、移譲に関して何らかの話があったことが推察される。
指導所の移譲が本決まりとなったのは、それから1年後のことである。昭和26年7月に開催された総会で中村理事長から「繊維産業振興対策の一環として本組合と密接な関係にある浦和染織指導所の経営管理を民間団体に移譲して、その機能を十分に発揮させ優良品の増産を図る計画がある」と説明があり、「役員会で真剣に討議し、県当局とも連絡をとった結果、当組合への移譲が実現する見通しが立ったため、ここで審議してほしい」とのことであった。
そこで改めて指導所の所長から運営の現況、現有設備に基づく収支概算等々、詳細な説明があり、質疑応答の後、当組合への移譲、即ち、当組合の共同施設として、浦和染織指導所を借り受けることが、満場一致で承認された。
昭和26年(1951年)10月に行われた臨時総会での挨拶で、尾崎太郎新理事長は新施設への思いを次のように語っている。
「7月19日綿の統制が停止されてから業界は金融の不円滑と輸出の不振、特需の減少等、悲観材料続出の状態で前途の不安を思わせたが、9月に入り輸出契約の増加と綿糸相場も確かなものとなり、次第に活気を帯びてきた。当産地の織物は伝統と経験に富む染色整理を必要とする加工織物に転じ、時世に適した優良品を生産することが急務であり、共同施設完成によって産地の発展振興に重大なる役割を果たしうると確信している(下線部編集部)」
上記下線部に注目してほしい。当組合の遺されている膨大な決議録の中で、「特需」という言葉が見られるのはここでの下線部のみである。朝鮮戦争の休戦協定が調印されたのは昭和28年(1953年)7月のことであったが、尾崎理事長の言葉を読む限り、当組合事業に恩恵をもたらした「特需」は、それよりずっと前のこの年、昭和26年夏ごろにはすでに終息していたようである。

共同事業場完成、事務所移転

そして昭和26年(1951年)7月の総会決議からわずか4か月後の11月1日、埼玉県浦和染織指導所の運営を埼玉県から移譲されて当組合の共同事業場となり、組合事務所も浦和市常盤町9丁目136番地に移った。
ガチャマン景気を直接物語るものではないが、指導所が当組合に急遽移譲された背景には、特需の影響があった可能性がある。それはこういうことである。埼玉県行田市周辺は足袋の生産地として知られているが、朝鮮戦争勃発によって生産量をはるかに超える注文が入るようになり、各工場は連日フル稼働することになった。足袋の原反となるのは別珍・コール天だが、それらを生産、納入していたのが当組合の綿織物業者たちであった。当然のことながら、別珍・コール天の生産量は急増した。
しかし別珍・コール天の生産には、余計な脂肪分などを取り除く
「精練」という工程が必要であり、中小事業者が多い当組合では、精練工程を効率化して一気に生産量を増やすことができなかった。そこで「浦和染織指導所の施設を全面的に借り受けて、別珍・コール天の精錬仕上げ等の共同事業を開始した」と『埼玉県史』で紹介されている。
指導所移譲の背景に何があったのか、実際はどうだったのか決議録から読み解くことは難しい。しかし製品の品質向上に不可欠であるとして、多額の補助金を使って精練施設を設置したことは決議録の中でも語られている。昭和26年の役員会でも、精練設備をどのようなものにするべきかが何度も話し合われているのである。
同年にまとめた当組合の沿革の中でも、「指導所を貸与され理想的な共同事業場を得るに至る」、また事務所も同所に移転したことにより、「産地の実情に適応するよう、染色、整理、梱包等、各部門の刷新拡充を期すると共に、国及び県より多額の補助金の交付を受け、新たに別珍・コール天の精練仕上げ機械を設置して品質の改善に努め好成績を上げている」と明記している。
「ガチャマン景気」という時代背景の中、当組合の共同施設はこうして充実したものになっていった。