埼玉織物の歴史 第1章

第1節 新たな組合設立へ

戦後の混乱の中、織物生産開始

終戦により空襲警報におびえる日々はようやく終わりを告げたが、人々にほっとしている余裕はなかった。長期に及んだ戦争の影響で、物不足はピークに達し、遅配や欠配が常となっていた統制品の配給だけでは、とても生きていくことはできなかったからである。焼け跡には闇市が立ち、日本軍や連合軍からの放出品など主に食料品が法外な価格で売られていた。
埼玉県でも各地に闇市が立った。大宮では、現在の「大宮タカシマヤ」周辺に闇市ができ、バラックの商店も立ち並んだ。浦和では現在の「さくら草通り」に闇市が立った。蕨駅前にも闇市ができ、「お金さえあれば、芋、ピーナッツ、鍋、古着などを買うことができた」という。
空襲が比較的少なかった埼玉県南部の綿織物工場では、手持ちの原料や旧日本軍からの横流し原糸などを原料に、生産を開始する業者もあった。闇市では、配給価格の5倍以上の値段で綿糸が取引きされていたが、「織物」に加工すると、さらに高値で売ることができたからである。「当時、綿糸20番手1梱(40束)は、配給価格8万円であったが、ヤミで1束1万2千円にもなった」。さらにその綿糸を織物にすれば、もっと大きな儲けになったという。
一方、日本占領行政の指揮にあたっていたGHQ(連合国軍総司令部)では、日本経済を復興させるには、紡績や綿織物などの繊維産業を立ち直らせることが最重要と考えていた。その背景には、日本の繊維産業に輸出産業としての長い実績があったことと、戦争の影響で取引きされなかった綿花がアメリカ国内に大量に余っていたという事情があった。
こうしたGHQの意向が徐々に明らかになると、各地の織物統制組合では生産再開に備えて、設備補修などの指導に当たるようになった。そして終戦からわずか2か月後の昭和20年(1945年)10月末「綿スフ織物の生産計画」が立てられて、旧日本軍が所有していた綿糸などが業界に割り当てられた。埼玉県織物統制組合にも、ごくわずかではあるが割当があり、織物生産が再開された。日本国内で綿織物業が本格的に活動を再開するのは、昭和21年(1946年)6月5日アメリカのアーネストギブソン号が、綿花21,707俵を積んで神戸港に入港して以降のことになる。
この綿花を材料に、国内の綿紡工業が生産を開始し、出来上がった原糸を「日本繊維協会」が、各地の織物統制組合に割り当てるという構図であった。
もちろん原糸は、自動的に手に入るわけではなく、買い取らなければならなかった。決議録を見ると、昭和21年10月に行われた埼玉県織物工業統制組合役員会の第1号議案として「原糸一括購入資金並びに必要経費借入事案承認の件」が記されている。それによると埼玉銀行から58万円を借り受け、その大半を原糸購入資金に充てたとのことであった。

統制組合から協同組合へ

統制組合は、戦時統制立法の「商工組合法」に基づいて生まれた組織であったため、自由で平等な経済を推進させるというGHQの目的には適していなかった。そこで政府は昭和21年(1946年)に「商工協同組合法」を公布して、組合員の事業合理化を図る上で必要な共同施設を持った「協同組合」に組織替えすることを、各統制組合に促した。
同法に基づいて創立された全国組織が「日本綿スフ織物工業協同組合連合会」(注6)であり、後の「日本綿スフ織物工業連合会」(綿工連)へとつながっていく。

埼玉県織物工業統制組合で、組織改正の議論が最初に行われたのは、原糸一括購入資金の話合いが行われた日と同じ、昭和21年10月の役員会であった。平岡良蔵理事長が「商工協同組合法」が議会を通過したことを役員に伝えているのだが、組合として具体的にどのように動くかは記されていない。またこれが8番目の議案であったことなどから、切羽詰まった状況ではなかったように思われる。
しかし翌昭和22年1月27日に開かれた役員会では「協同組合設立に関する件」が第1号議案となり、協同組合設立の具体的方策を検討していくこと、統制組合を解散することなどが話し合われ、埼玉織物工業協同組合誕生に向けた動きが、いよいよ本格化していくことになる。

そして埼玉県織物工業統制組合は「商工協同組合法」の規定によって、昭和22年(1947年)2月28日限りで法律上解散となった。これを受けて3月10日、平岡理事長は「解散に関する件」を協議するため、役員会を招集した。3月17日、埼玉県織物工業統制組合では最後の役員会を開き、職員に対する解散手当など、清算に関する話合いが行われた。出席者は尾崎太郎理事、多加谷乙末理事、糖谷宇平監事、中村彌太郎顧問の4名だった(平岡理事長は欠席)。

第2節 埼玉織物工業協同組合設立

発起人会・創立総会開催に向けて

埼玉織物工業協同組合(以下、当組合)設立(注7)の第一歩は、昭和22年(1947年)2月16日に「発起人会」を開くところから始まった。
ただし協同組合を設立するためには、出資者を募る必要があり、発起人会を開く前に統制組合の理事たちが立ち上げの段取りなどについて相談したと思われる。
作成日は明記されていないが、「協同組合設立順序」という文書が遺されている。
そこには、まず発起人を決定し、発起人会にて「組合名、統括する地域、事務所所在地、出資総額(出資口数)、定款に必要な事項等々」を決定、その上で発起人が連名で「商工協同組合設立発起の通知書並びに出資引受書」を作成し、組合員有資格者(104名)に発送、「出資申込」を勧誘することとなっている。出資申込が集まった段階で「創立総会」を開催する運びであった。
発起人会が開かれた2月16日付で西村實造埼玉県知事(当時)宛に「埼玉織物工業協同組合創立総会招集報告書」を提出、そこには2月22日の創立総会にて「定款制定」「事業計画書」「理事・監事選任」「初年度における収支予算書及び経費の賦課徴収方法に関する件」等々、組合の運営体制を決議すると記されている。
発起人会開催が2月16日、創立総会開催が2月22日と短期間であることから、組合員となる人たちから出資申込を集めるところまで、下準備はすでに整っていたのであろう。それについて詳細な記録は遺されてない。

発起人会開催

昭和22年(1947年)2月16日、埼玉織物工業協同組合の発起人会が開催された。発起人となったのは19名、埼玉県織物工業統制組合が管轄していた各地区の織物工業施設組合(昭和会、北足立、東和、川口、蕨絹人絹、蕨第一、蕨麻、加須)の理事長たちであり、メンバーの中には当組合の初代理事長となる中村彌太郎(与野町)、2代目理事長を務める尾崎太郎(浦和市)、3代目理事長となる野崎新一郎(蕨町)の名も含まれている。

組合設立発起人
浦和市常盤町  尾崎太郎(埼玉工業株式会社)
北足立郡与野町 中村彌太郎(中村織物有限会社)
浦和市常盤町  星野正勝(常盤織物有限会社)
浦和市常盤町  戸張幸一(中武織物有限会社)
浦和市北浦和町 武藤公吉
川口市前川町  飯塚留次郎(飯留織物株式会社)
川口市上青木町 土屋伊之助(土屋紡織工業株式会社)
川口市大字神戸 矢作眞一
川口市大字芝  矢作政之助
北足立郡蕨町  中村直幸(日本化工紡織株式会社)
北足立郡蕨町  原 新助
北足立郡蕨町  野崎新一郎
北足立郡戸田町 熊木秀吉
北埼玉郡騎西町 柿沼万之輔
北埼玉郡村君村 竹村和一
児玉郡旭村   亀田駒太郎
児玉郡本庄町  齋藤太郎
児玉郡本庄町  萩野美代七
児玉郡児玉町  逸見邦利(以上、商工協同組合設立発起届掲載順)

この発起人会で、以下の通り、協同組合の名称や地区、事務所所在地、出資額などが決定された。

名称:埼玉織物工業協同組合
地域:浦和市、川口市、大宮市、熊谷市、北足立郡、南埼玉郡、北埼玉郡、大里郡、北葛飾郡、児玉郡一円
組合事務所:
本部:浦和市常盤町9丁目181番地
支部:浦和・川口・蕨・加須・深谷の各施設組合の事務所
(ただし当分の間使用せずと但書あり)
組合員数:104名出資額:50万円(4分の1払込)。一口100円。織機基準台数に割当て
(織機1台200円(第1回払込50円)

組合設立趣旨
「織物業は戦力増強のため、大東亜戦争中の実施に係る商工組合法により設立された統制組合または施設組合等の統制機関により統制されていたが、終戦後平和日本建設のため実施された商工協同組合法の立法趣旨に基づき組合員の緊密なる結合により織物の改良、発達に資せんため、組合員の事業経営の合理化を図るを目的として本組合を設立せんとするものなり」(「商工協同組合設立発起届」より。編集部にて旧かな遣いを変更)

そして翌2月17日には、組合が管轄する地域や組合員の資格、組合員数など、発起人会で決定された事項と共に、「組合設立趣旨」(上記参照)及び「地域内における織物工業の概要」を記載した「商工協同組合設立発起届」を西村實造埼玉県知事(当時)宛に提出、埼玉織物工業協同組合の設立を届け出た。 なお、上記「地域内における織物工業の概要」には、昭和16年度から昭和20年度の「綿スフ織物」「絹織物」「絹綿交織物」「人絹織物」の生産数量・金額を記し、「織物業者は戦時統制経済の下でよく忍苦に耐え国民衣料の確保のため、事業の維持経営に努力してきた」と述べている。

第1回臨時組合員総会開催

昭和22年(1947年)2月22日の創立総会では、「協同組合設立順序」に則り、「定款の制定、理事・監事の選任、収支予算の決定」などが行われた。
創立総会終了後、埼玉県知事宛に「商工協同組合設立認可申請書」を提出し、設立認可が下りた時点で組合員に出資金の振込を請求して設立登記申請を行い、登記は完了した。さらに県知事に「組合設立登記完了届」を提出し、すべての設立手続きは完了した。
昭和22年4月1日付けで、初代理事長として中村彌太郎が就任した。 組合員を集めた最初の総会は、昭和22年4月12日に開かれた「第1回臨時組合員総会」である。組合員総数108名(当時)のうち80名が出席し、浦和市常盤町9丁目181番地の当組合本部事務所で開催された。この総会こそが、埼玉織物工業協同組合の実質的な船出であった。
占領下ではあったが平和日本に向けての戦後改革により、同年3月31日教育基本法・学校教育法公布、5月3日日本国憲法施行、同日最高裁判所発足、7月1日公正取引委員会発足…と、現代まで続くさまざまな制度や組織が生まれたこの年、当組合も自由経済という海原へ漕ぎ出すことになったのである。