埼玉織物の歴史 序章
第1節 埼玉織物同業組合設立
同業組合法の制定
先に述べたように我が国の綿織物の生産は、大阪府、愛知県、そして埼玉県を主要生産地として国内需要をほぼ満たすようになり、徐々に国外市場へ広がりを見せていった。それに伴い、業者間での競争が激しくなり、品質低下、乱造、値崩れなどのさまざまな問題が発生した。そこで政府は、「明治17年(1884年)11月に「同業組合準則」を定め、同30年(1897年)4月に「重要輸出品同業組合法」を制定・公布」した。この法律では組合の営利事業だけではなく、組合は商品の検査規定を設けて、検査することができると定められ、検査証の偽造変造等には重禁固や罰金が科せられた。
同法は、明治33年(1900年)3月には「重要物産同業組合法」に改められる。主な変更点は、組合による営利事業の禁止にあった。さらに、これらの法律が制定された大きな理由である製品の品質低下防止のための検査について、大正5年(1916年)の改正では「検査員の任免は農商務大臣の認可を要すること」と改正付加されている。
県南地域でも同業組合設立
小規模経営が多い埼玉県内の織物業者は市場が広がるにつれて、さまざまな課題に向き合わざるを得なくなり、お互いに協力し合うことを模索し始めた。当組合のルーツともいえる「埼玉織物同業会」の設立はそのような背景があったと考えられる。
昭和26年度(1951年度)の当組合の決議録に記載された「組合の沿革」には、当組合の始まりとしてに次のように記されている。
「1.明治29年北足立郡一圓を地區とする織物関係業者の相諮り共同の福利増進を目的として埼玉織物同業会が設立された。」
しかし「埼玉織物同業会」に関してはこの文書以外に資料は遺されておらず、残念ながら、詳細は不明である。
明治30年代になると、川口市域で最も織物生産が盛んな芝村と横曽根村で織物組合設立の動きが出てきた。前頁で述べた明治30年(1897年)4月の「重要輸出品同業組合法」に則り、同30年12月、芝村の機屋平田剣次郎を中心に内田甚平、大野由藏、榎原清次郎、平田清吉の5氏を発起人として「芝村織物組合」設立を申請し、明治31年(1898年)2月に認可が下りた。
創立委員は大熊忠蔵、本多与三郎、沢田治郎右衛門、浜野伊三郎、榎原清次郎、横溝藤太郎、平田清吉、島根萬吉、渡辺清之助、大野由藏、清水啓太郎の11名である。
同組合は、芝村在住の機屋、買継商、染物業者等で構成され、業務の改良進歩、販路拡張等を目標に設置されたが、後に業者間で同志会も結ばれ規律や褒賞等も取り決めた。
また同組合では共同染物工場の設置を事業として計画、明治33年(1900年)6月に芝村の機屋が出資して「芝染色株式会社」を設立したが、業績は振るわなかったようだ。
一方、横曽根村でも織物組合設立を目指し、尾熊伊兵衛を発起人、遠藤藤八他9名を創立委員とする11名で、明治31年7月、横曽根織物組合を申請した。しかし県は既設芝村織物組合と合同で業務を進めたらいかがかと当初不許可の方針を取っていたが、発起人たちは横曽根織物組合の独自性を強く主張し、同年10月認可となった。
埼玉織物同業組合の設立
「重要物産同業組合法」(26頁参照)に基づき、明治35年(1902年)5月、渋谷秋蔵(木崎村)らが発起人となり、「埼玉織物同業組合」が設立された。
明治35年(1902年)1月13日に農商務大臣宛に提出した同組合設立理由書には、「『立国の大本是』は工業の発展にある。しかれども、不良により信用がなくなれば工業の発達を阻害し、国の貧弱を招くことは火を見るより明らかである。国内屈指の埼玉県の織物業にあって、同業者が一致団結して、更なる品質の改良進歩を図る」と、
埼玉の織物業者の心意気を高らかに宣言している。
同組合は北足立郡の北部を除く全地域、入間郡川越以東の各町村及び比企郡出丸町・八ッ保村などの生産者と買継商で構成され、芝村織物組合と横曽根織物組合(27頁参照)は傘下に入った。
各業者の取扱品目は、木綿双子織、絹綿交織、綿甲斐(かい)絹織、綿毛交織、木綿洋服地、青縞、京棧(きょうざん)織、綿蚊帳(かや)、木綿袴地織、木綿帯地、毛織と多岐にわたる。
組合加入者は設立時989名で、そのうち蕨が123名で最も多く、芝93名、木崎55名、横曽根・戸田・谷田・与野・植水・間宮・日進・指扇の各村で30 ~ 40名で、これらが北足立郡南部の一大綿業地となっていたことが分かる。この他、川越からも38名が加入している。
事務所は、「北足立郡浦和町」に置いたが、蕨・鳩ケ谷・浦和・宗岡・川越・大宮の6区に分け、それぞれに支部を置くこととした。
また「目的と業務」について、定款にて、次のように定めている。
目的:組合員は一致協同親睦を専らとし、営業上の信用を増進し、弊害を矯正し、斯業の改良発達、販路の拡張を図るを目的とす。
業務内容(抜粋):
1.営業上の信用を保全すること。
2.斯業の改良・進歩を推奨すること。
3.粗製濫造の弊を矯正すること。
4.組合員の製造品たることを表示して、その責任を明らかにすること。
5.染色及び尺幅を規定して、組合員に履行させること。
6.組合員製造品の検査を行うこと。
7.他の組合と気脈を通じ、また連合会に加入すること。
8.他の生産地並びに組合と交渉し、織物標本を交換し、また改良品の見本を募集し、本組合に備え置き組合員の参考に供すること。
9.時々品評会及び講習会を開設して、製造品に関する研究を行うこと。
10.徒弟を教養し、並びに職工の取り締まりをなし、かつこれを保護奨励すること。
この「埼玉織物同業組合」が当組合の実質的な原点と考えていいだろう。26頁で述べた決議録に掲載された当組合の沿革では「埼玉織物同業会」に続いて、「埼玉織物同業組合」の設立について記している。
なお、大正4年(1915年)9月発行の『浦和案内』には、「埼玉織物同業組合」の広告が掲載されている。「當組合より產出の織物は組合定款に基き責任ある染織保障あり」「當組合より產出の織物は最新流行珍柄のみにして價格、低廉、品質堅牢なるを誇とす」とのコピーからは、当時の織物業者の意気込みが感じられる。
第2節 県南織物業、近代化に遅れる
力織機による工場生産の始まり
織物業界で力織機が普及したのは、明治30年代に入ってからだった。豊田佐吉が明治23年(1890年)に豊田式人力織機を発明、さらに明治29年(1896年)に木製動力織機を発明すると、東海地域の業者がまずそれを使うようになった。織物産地の中で「遠州は明治33年(1900年)64台、同40年(1907年)991台、同44年(1911年)3,513台。知多は明治40年1,231台、同44年に5,088台」になったという。
国内綿織物の生産額は日清戦争が終結した明治28年(1895年)には前年比約240%増の63,422,000円に、日露戦争終結の明治38年(1905年)には72,844,000円、2年後の明治40年には103,590,000円と1億円を超えた。そして明治42年(1909年)には輸出額が17,672,000円となり、初めて輸入額14,907,000円を超えた。(注8)日清・日露戦争の勝利によって、中国・満州・朝鮮(国名は当時)へ市場が拡大し、生産力を上げるためには、力織機の設置が必要不可欠となっていったのである。
明治33年の『全国工場統計表』(農商務省調査)(注9)によれば、全国に原動機を有する工場が3,381あり、そのうち繊維工場は2,393、つまり総工場数の70.7%を繊維工場が占めていた。明治42年の調査でも、原動機を有する工場で職工規模10人以上の工場のうち、繊維工場が占める割合は57.9%に及んでいる。繊維産業での近代化が進んでいたことがよく分かる。
また、動力は明治から大正初期は石油発動機がメインであったが、第一次世界大戦後の軍需景気によって工場動力の電化が一気に進むと、織物工場も電動力に依るようになり、さらなる発展を遂げた。
しかし、埼玉県では全国有数の綿織物産地でありながら、他の産地に比べて力織機の設置や工場化など、近代化が遅れていた。明治33年の埼玉県の綿織物生産額は6,168,200円で全国3位だったが、明治38年は4,698,700円で全国6位、明治43年には7,022,500円まで増えたものの同じく全国6位であった。また力織機の台数も明治38年で411台、全国で11位、明治43年で593台に増えたが全国順位は20位だった。
北足立郡一帯で見ると、明治38年には工場といえるものはなかったのか、工場数は計上されていないが、5年後の明治43年には125となり、県内で第1位であった。また力織機の台数は明治38年が90台、明治43年は144台と増加し、明治時代の終わり頃に、ようやく力織機を使用して工場生産を行うようになったことが見て取れる。ただし、職工10 ~ 20人の小規模工場がほとんどで、力織機の台数も少なかった。
このように近代化が遅れた理由について、『埼玉県史』では「軽々に指摘できないが、東京の市場に近くて業者の団結力が乏しく、資本力の小さいこともあって、東京の問屋に支配される傾向があったことも一因と考えられる」と記している。
第一次世界大戦による好景気に沸く
日露戦争で国外市場が拡大したものの、国内では軍需景気の反動で、明治40年(1907年)戦後恐慌が起こり、国内は長期的に慢性的な不況に陥った。しかし大正3年(1914年)に第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパ各国が戦禍により生産力が低下したため、日本の工業製品への需要は急増した。大正7年(1918年)のベルサイユ講和条約締結を経て、大正8~9年にかけての好況のピーク時まで、日本の工業は大きく発展を遂げた。
国内の綿織物生産額は大正3年には150,385,000円だったが、大正8年(1919年)には1,033,831,000円に、また綿織物の輸出額は大正3年34,841,000円が、大正9年(1920年)には334,966,000円とそれぞれピークを迎えた。
それまで先進諸国が圧していた世界市場に、大戦の影響を受けなかった日本の綿織物が、一気に流れ込んでいったのだ。
埼玉県内の織物生産額も、大正3年1,025万円が大正8年には6,502万円と約6倍に達した。大正8年5月、埼玉県では「広幅力織機奨励補助規則」を制定して輸出用・国内用広幅織物の生産を奨励した。その結果、「大正4年(1915年)の力織機台数が1,563台だったが大正8年には3,110台になり、職工10人以上を有する機屋475戸が全力織機の約85%に当たる2,659台の力織機を使用していた」という。
またその頃になると原動力として電力を使用する工場も増えてきた。「織れば織るだけ金になる」状況下で、生産体制が工場生産に変わっていった時期であり、自社工場での生産だけでなく、近在の農村に賃織りに出す(出でばた機)ところもあったという。
大戦後の戦後恐慌で生産額激減
そして大正9年(1920年)3月、株式が大暴落し、再び戦後不況が起こった。大正9年の国内の綿織物生産額は前年比約67%、県内の綿織物の生産額は前年比約55%に激減、北埼玉郡では約40%まで落ち込んだ。
埼玉県織物同業組合連合会(大正8年設立)では4月に傘下の各組合に対して生産調整を求める一方、金融業者に対し地方産業の共済を求めるよう警告すると共に、金融緩和が第一の策であるとして動き始めた。各組合では同盟休業を決議したり、組合として関係金融機関への働きかけや県庁へ陳情するなど、打開策を図った。埼玉織物同業組合川越区では同盟休業を決議している。その後、少しずつ持ち直したが、ピーク時にまで回復するには至らなかった。
またこれを機に工場生産など近代化された生産形態に同業組合の組織がそぐわず、また各社の合理化のための共同施設や販売施設などの必要性も浮き彫りになったことから、大正時代の末頃からは、製造業者による工業組合設立の動きが出てきた。
県南部の織物業の実態調査
ここで大正12年(1923年)頃の埼玉県南部の織物業について記した農商務省工務局編纂の『織物及其大小に関する調査』を見てみよう。
まず「当地方には鳩ヶ谷、大宮、川越、蕨、浦和、宗岡及び芝の7カ所の主要生産地あり。相寄りて埼玉織物同業組合を組織す」「織物製造戸数は計823戸、織機総数1万136台、使用職工数1万273名、年生産額1,688万余円」と記載されている。
当時は、織機のうち中織機は主に工場組織の製造業者が所有し、家内工業では足踏み式織機や手織機を使用していた。そしてこの地域で最も多数を占めていたのは、小幅織機20台前後を所有する小規模製造業者であった。会社組織化していた工場は17か所で、そのうち最大の会社でも織機150台となっている。
主要な生産品は「国内向けの綿織物」として、各種双子、各種綿縮、綿更紗、綿緒、八丈、男女帯地、各種綿海気、蚊帳地、紺木綿、型下地、綿ネル、綿服地、シャツ地、葛城地、唐天、コール天、朱子、風呂敷、白木綿、鼻緒地、敷布地、タオル等。「輸出向け品」としては、各種小倉類が挙がっている。
生産品を地域別に見ると、鳩ヶ谷地方は広幅織機を有しているところが多く、綿洋服地、女袴地、シャツ地、風呂敷等の生産が多い。大宮付近は、綿海気、綿縮、双子。川越付近は、京棧、絹綿交織。浦和は唐天、コール天、綿縮、双子。蕨、芝、宗岡地方は、綿縮、双子が主力であったとのことだ。
小規模の事業者が地域ごとに密集し、それぞれが得意分野の綿織物を手掛け、腕を競い合っている、このような情景が、大正12年頃の埼玉県南部の織物業の特徴であった。
第3節 同業組合から工業組合へ
昭和金融恐慌、世界恐慌により経済不況深刻化
大正12年(1923年)9月1日、相模湾を震源地とする関東大震災が発生した。死者は10万人を超え、南関東から東海にかけて広範な被害を受けた。埼玉県下で最も被害が大きかったのは、川口、粕壁(現春日部)、幸手の三町で、川口が属する北足立郡では死傷者は309名に上った。
復興もままならないうちに、昭和2年(1927年)には片岡蔵相(当時)の失言から昭和金融恐慌が起こり、さらに昭和4年(1929年)に起きた世界恐慌の影響が翌年には日本に波及し、内外の需要は減退し、企業倒産も相次ぐなど、日本経済はかつてない不況に陥った。
埼玉県内の織物業界では広幅物、小幅物の価格も急落し、同時に生産数量も著しく減少、倒産も相次いだ。昭和6年(1931年)の県内綿織物の生産額は約664万円で大正12年の32%と減少している。製品別では農民や労務者の作業衣に多く使われた青縞は洋式作業着の普及によって需要が減り昭和6年は大正12年の8%まで減少、白木綿についても他府県での大工場生産などの影響で同15%と激減している。また学生服用の綿小倉服地などの広幅綿織物の昭和6年の生産額は大正12年の46%の約383万円であった。
県南の織物業の中核を占めていた蕨でも「昭和5年(1930年)頃には機屋の数は40軒になってしまった」という。しかしこのような状況下でも蕨では広幅綿織物のレインコートや学生服、シーツなどを中心に、その生産額は昭和5年で約64万円と前年より約30万円も減少したものの、県下の市町村で第1位を占めていた。金融恐慌から世界恐慌の不況時代を全力で乗り切った蕨の機業家はあくまで機業一筋に、合理化に努め、また密接な連携を取りながら情報を集めて新織物を開発するなど不況に忍耐強く対応していったことがその要因であろう。
そして、昭和6年の満州事変以降、昭和7年(1932年)の5・15事件、昭和11年(1936年)の2・26事件、日独防共協定締結と軍事色が濃くなり、軍需関連産業が活発化し、その間は一時的ではあるが織物業界も不況を脱したのである。
埼玉織物同業組合は解散、埼玉織物工業組合誕生
昭和6年(1931年)4月「工業組合法」が制定された。これはいわば、恐慌下での中小企業にカルテルを勧める法律で、「共同施設の利用によって経営の合理化や生産過剰を防ぐための生産統制、粗悪品の製造を防止するための検査などが行われ、さらに全国組織に加入して輸出品はその検査を受ける」というものだ。
これに伴い、昭和10年(1935年)3月、埼玉織物同業組合は解散し、新たに地域ごとに5つの工業組合が誕生した。
鳩ヶ谷織物工業組合(昭和9年10月結成。後に芝村の織物業者も加入)
蕨織物工業組合
埼玉織物工業組合
川越織物工業組合
高階織物工業組合(現川越市南部)
第4節 戦時体制下の綿織物業
埼玉織物工業組合、県東部一帯を統括
昭和12年(1937年)の日華事変(日中戦争)を契機に、日本経済は完全な戦争体制下に入った。綿織物業界にとって、一番こたえたのが物資の統制であった。綿糸は金属などと同様、国の重要物資に指定され、民間向け製品の製造が難しくなっていった。綿織物の原料である綿糸は、綿花を輸入して国内で作られていた。政府はまず昭和12年、国内の綿糸消費を抑制するため、綿紡績業者の操業短縮を強化した。
さらに昭和13年(1938年)から綿糸の生産量規制に踏み切った。同年2月、「綿製品スティーブル・ファイバー(スフ)等混用規則」を交付し、民需用綿織物と毛織物にはスフの混用を強制した。このことで綿織物業者は綿糸の入手が困難となった。
同年3月「綿糸配給統制規制」が交付・施行され、綿織業者は、日本輸出綿織物工業組合連合会(略称:綿工連、昭和3年創立)が発行した「綿糸割当票」を綿糸商に引き渡さなければ、綿糸を手に入れることができなくなった。
さらに規制の強化は続く。同年5月に「国家総動員法」が発動されると、生活必需品の製造販売を制限した。内需用綿製品は特定の製品しか生産できなくなり、価格も規制されることになった。しかも綿業統制を取り仕切ったのは、政府の命を受けた紡績連合会(紡績会社の綿布部門の組織)であったため、綿工連に所属していた埼玉県の各組合は、完全に自由を奪われた状態となってしまった。
埼玉県内では同年7月、「埼玉県スティーブル・ファイバー織物工業組合」が設立、理事長には与野の中村工場社長中村彌太郎(後の当組合初代理事長)が就任した。しかし同組合は、昭和15年(1940年)の工業組合再編成の際、解散した。
昭和14年(1939年)1月、「糸配給制規則」により織物業者・糸商がすべて一元管理され、織機の登録も行い、設備基準によって原料糸が配給されるようになった。しかし外貨獲得のための輸出用の綿織物を生産していた業者には原料糸が優先的に回され、同年10月の「電力調整令」でも県南24工場が適用を免除された。
昭和15年に日独伊三国同盟が成立すると、繊維製品の輸出量は激減した。それまで輸出用の綿織物を生産していた業者も厳しい状況に置かれることになる。そこで政府は同年11月「織物製造業者の合同に関する要綱」を決定した。企業合同を促進させることで、企業の体力を維持させようとした。
同年12月、鳩ヶ谷、蕨、久喜、加須等、県東部産業地域の工業組合は、埼玉織物工業組合に統合され、中村彌太郎が理事長に就任した。
軍需工場化、織機解体へ
昭和17年(1939年)ドイツのポーランド侵攻で第二次世界対戦が始まり、昭和16年(1941年)12月8日、日本海軍の真珠湾攻撃により日米開戦。アメリカなど連合国との戦争が始まった。緒戦は優勢であったが、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦で惨敗すると戦局は悪化の一途を辿った。
昭和18年(1943年)6月「戦力増強企業整備要綱」が閣議決定され、すべての人的物的生産力を軍事向けとすることになった。綿布業界は「織物製造業整備要綱」によって、全国4割ほどの工場だけが「計画生産に必要な工場」として操業を許可された。これらの工場は、空襲のことも考慮して決められているので、戦局はそこまで切迫していた。
昭和19年(1944年)3月、「金属回収令」が発令された。この法律によって梵鐘までが鉄材として没収された。戦争末期には、軍用機や武器生産のための物資が不足したため、多くの織機が解体され、鉄材として没収されていった。
織物業者の仕事と暮らし
戦時下の状況は、本書第2部に掲載された組合員の方々から寄せられたアンケートの回答から知ることができる。
以下、その中から当時を記した個所を紹介するが、戦時下で統制が厳しく、通常の綿織物は価格も決められて利益を上げにくい状況の下で、幌(ほろ)や救命胴衣などの軍需物質に製造品目を変えながら、したたかに事業を継続していく状況が読み取れる。
・昭和6年(1931年)より内閣印刷局より銀行券、証券等の高級印刷に欠かせないブランケット製作に関する特別技術が認められ昭和7年(1932年)より三菱商事、三井物産を通しポプリンの輸出を始めました。昭和8年(1933年)の今上天皇お誕生の時には献上の栄を賜りました。戦時中は外国品輸入困難な際も研究を重ねブランケットを製織、国にとっては欠くことができない軍需工場でした。また、トッパン印刷用綿布を多量に補充するよう要請されました。(浦和地区 飯田興業㈱ 飯田千恵子)
・昭和12年(1937年)に支那事変(日中戦争)が始まり軍需産業が優先される時代になり、我が家では厚物を得意としていたために敷布の製造に切り替えました。軍用のテント・兵隊の背嚢・車両のカバーなどを製造していましたので、昭和20年(1945年)の終戦までは政府から特別軍需工場として、埼玉県に割り当てられた綿糸の約半分が我が工場に割り当てられて活況を呈していました。でも敗戦間際の昭和19年(1944年)には、兵器を作るために鐵製品の回収が始まり、止む無く織機を解体して提供させられることになりました。(蕨地区 金子㈱ 金子積行)
・福井園蔵氏が日露戦争から帰還後、福井織物工場として営んできました。製品は風呂敷、白綿地等です。その後昭和時代に移り、昭和16年(1941年)から太平洋戦争が勃発し、政府の「金属回収令」により織機の供出で廃業となりました。(川口地区 福井勇三)
・綿風呂敷が実用的で家庭での必需品であり、用途が広く使われるため大正時代より生産された各幅の製品がありました。昭和15年に企業合併令が出され、機屋何社かと合併しました。その後、戦時体制に合わせる製品を作る時代に変わって、軍の必要とする救命胴衣などを製造しました。(川口地区 森竜織物㈱ 森啓至)
・明治6年創業。大正から昭和の始め頃までは綿織物を専業とし、服の裏地を、戦時中は軍から麻を分けてもらい、海軍の服地を生産していました。(川口地区 柳田織布㈱ 柳田雅彦)
埼玉県織物工業統制組合設立
昭和19年(1944年)5月、織物業界に向けた重要な通達が出された。「織物製造業の統合要綱」である。昭和18年(1943年)の「織物製造業整備要綱」では中規模以上の工場が重点的に活用された。そのため中小工場の多くは経営不能の状態になろうとしていた。そこで中小工場の再編成と統合を促したのである。
「統合要綱」の中では、
・地域的、製品種類別に統合する。
・統合体の標準台数は300台以上とする。
・統合体の形態は、原則として有限会社または施設組合とする。
・昭和19年6月までに完了すること。
等々が定められている。
こうして、埼玉織物工業組合、武蔵織物工業組合、小川絹織物工業組合、越生絹織物工業組合が一つになり「埼玉県織物工業統制組合」が設立された。統制組合は1県1組合が基本であったが、埼玉県は秩父の絹織物産地の特殊性が認められ、「秩父織物統制組合」と二つの統制組合が設立されたのである。
昭和19年7月、中村彌太郎が発起人総代となり、「埼玉県織物工業統制組合」の創立総会が開催され、理事長には、水富織布㈱社長であり、武蔵織物工業組合理事長、埼玉県入間郡町村長会長などの要職を務めた平岡良蔵が選出された(中村彌太郎は顧問)。
定款には「本組合は国民経済の総力を最も有効に発揮せしむるため織物工業の統制及びこれがためにする経営を行いかつ織物工業に関する国策の遂行に協力することを目的とす」と明記され、統制の徹底とその管理が、組合の主な業務であった。
設立登記手続きは同年10月16日、登記完了日は同年10月19日であり、事務所は浦和市に置かれた。
なお、当時、繊維業界以外にも、出版業界、石油業界、鉄鋼業界、化学業界、運輸業界等々、あらゆる産業が国の統制下に置かれた。
戦時下に発令された統制法の主なものだけを並べてみても、「電力管理法」(昭和13年)、「国民徴用令」「米穀配給統制法」「賃金統制令」(昭和14年)、「生活必需物資統制令」「農業生産統制令」(昭和16年)、「食糧管理法」(昭和17年)と、生活のあらゆる側面で窮屈になっていく様子がよく分かる。
戦局いよいよ厳しく、ポツダム宣言受託
昭和19年(1944年)8月、テニアン島で日本軍玉砕、グアム島で日本軍玉砕、10月沖縄空襲、レイテ島で初の神風特別攻撃隊の出動があった。いよいよ敗戦の足音が聞こえてくるこの頃、生活に必要なあらゆる物資が不足し、政府による統制はさらに強化された。
昭和19年における国内衣料の供給量は、昭和12年の7.4%で、一般的な綿織物はほとんど製造されていない状況であった。
戦争が埼玉県南部の綿織物生産にどれほど深刻な影響を与えていったか、当組合昭和22年(1947年)の決議録の数字から追うことができる。綿・スフ織物の生産は戦争末期の昭和20年(1945年)には開戦時の約3分の1にまで生産額が落ちてしまっている。
昭和16年:綿スフ織物 11,326,507円
昭和17年:綿スフ織物 10,082,132円
昭和18年:綿スフ織物 07,852,330円
昭和19年:綿スフ織物 04,143,116円
昭和20年:綿スフ織物 03,829,414円
いよいよ戦局は厳しくなると本土空襲が始まった。昭和19年11月以降、東京だけでも100回以上の空襲を受けている。埼玉県でも昭和19年11月以降で空襲を受けた日は延べ42日、中には一日に時間差で2 ~ 3か所が被災するケースも多々あった。
昭和20年4月13日深夜から14日にかけて、大宮、浦和、蕨が大きな被害を受けた。この空襲での被災について統制組合の資料には、「北足立郡蕨町の田中彦右エ門、田中正吉、田中輝吉工場全焼し、岩田金蔵工場は一部被害を受けたため、組合より見舞った」と記されている。
空襲警報が鳴り響く状況下でも、統制組合の活動は続けられた。一方で、終戦の年に綴られた総会の記録からは、語句の端々に戦局の厳しさを感じ取ることができる。「戦局は愈々危急にして敵米英は膨大なる物量を悖んで遮ニ無ニ攻勢に出で、或はサイパン島、硫黄島を攻略し、…沖縄島の攻落を…(編集部にて旧かな遣いを変更)」
昭和20年8月、広島と長崎に原爆が投下され、同年8月15日、日本は無条件降伏し、終戦を迎えた。